<1>失われた蜀の歴史
重要な遺跡続々発見 豊かな大自然を背景に



 中国四川(しせん)省で近年相次いだ発掘成果をテーマに、25日から8月1日まで盛岡市内丸の県民会館で「よみがえる四川文明−三星堆(さんせいたい)と金沙(きんさ)遺跡の秘宝展」(岩手日報社など主催)が開かれる。古代蜀(しょく)(約3千年前)の時代、黄河文明とは別の文明が長江(揚子江)に栄えていたことを物語る展示がされる。同展の監修者・鶴間和幸学習院大教授に四川文明と発掘の成果を5回に渡って寄稿してもらう。

 48万平方キロメートルの面積と8500万の人口を擁する広大な四川省、歴史的には巴蜀(はしょく)と呼ばれている。面積は日本の1・5倍、人口は直轄市の重慶を含めれば、1億を超える。1つの国家といってもよいほどの広大な地域だ。

 巴と蜀とはそこに居住していた人々の呼称で、巴は四川省東部、蜀は西部、現在の都市でいえば、その中心は重慶と成都である。今回の展覧会はその古代の蜀とその周辺に焦点を当てた。

 蜀の字形は、カイコを表すともいわれている。ちなみに巴はヘビの形である。この蜀の地から1986年に三星堆遺跡、2001年に金沙遺跡、2000年に大型船棺(せんかん)遺跡と次々と重要な発見が相次ぎ、古代の四川の文明の歴史がよみがえった。

 三国時代劉備(りゅうび)と諸葛孔明(しょかつこうめい)の蜀は3世紀、今から1800年前のことで、劉邦(りゅうほう)の国も蜀漢から起こり、漢帝国をうち立てたのは、紀元前3世紀の末、今から2200年前のことであった。始皇帝よりも4代前の恵文王の時代、秦は蜀を滅ぼした。今から2300年前のことである。

 さらに今から3000年前、周の武王が殷(いん)を滅ぼした時に、討伐軍の中に確かに蜀が加わっていた。この3000年前の殷周交代期から2300年前の戦国時代までの空白の歴史が、3つの遺跡によって明らかになった。蜀の歴史を記した「華陽国志(かようこくし)」は3世紀のものである。秦に滅ぼされた蜀の歴史を語っているが、断片でしかない。また書き手は蜀に植民した漢の人たちであった。失われた蜀の文明は考古学的な発見によってよみがえった。

 蜀の地は岷江(みんこう)という河川が平原に流れた土地にある。現在の成都も水の都といってよいほど岷江から引いた水路が街を巡る。平原に注ぐ入り口には世界遺産にも登録された都江堰(とこうえん)の水利施設があり、蜀の生命線になっている。都江堰がなければ、扇状地上の成都は、水の恩恵を受けることも、また洪水の危険を免れることもできなかった。

 さらに上流には、黄龍や九寨溝(きゅうさいこう)といった世界遺産に登録された自然の森林の美しさを見ることができる。原生林と豊富な水、湖沼が散在し、まさに四川省の秘境である。現在絶滅の危機にひんしたパンダも、こうした豊かな四川の自然の中で生き延びてきた貴重な動物である。
 つるま・かずゆき 1950年生まれ。東京教育大文学部卒。茨城大教授を経て96年から学習院大文学部教授。中国古代史が専門。

【写真=2001年に見つかった金沙遺跡「蘭苑」の出土状況】




<2>強調される独自性
地形的に「四寒の地」 盆地を舞台に自立の道


 巴蜀(はしょく)文化、四川(しせん)文化といえば中国文明の中の一地域文化であることが強調され、四川文明といえば、さらにその独自性が強調される。文明は物質も精神も含めた大きな創造的な生活体系を意味する。

 中国には二大河川があり、黄河文明とか長江文明とかいうとらえ方がされてきた。しかし黄河と長江流域とに南北を二分してしまうと、多種多様の中国という世界を理解することはできない。黄河と長江は、上流では同じ水源を共有し、下流では同じ平原を共有しているきょうだい河川である。世界の四大文明の1つであるメソポタミア文明の舞台がチグリス・ユーフラテス両河川にあったのと同じだ。

 20世紀前半に、黄河流域や黄土高原を中心に考古学的な発掘があった時は、黄河文明という見方で良かった。20世紀後半には長江流域でも新発見が相次いだ。小麦と稲の文化圏として南北に分けず、中国文明という大きな親文明の中で、地域文明を考えた方がよい。

 中国文明という親文明は一色ではない。むしろきっちりした枠組みがなく、多様なものを受け入れる地域文明の集合だ。四川文明もその地域文明の1つだ。

 6300キロにも及ぶ長江流域は、1つの文化圏にはならなかった。地形的にも隔絶した四川盆地は、古来四塞(しさい)の地と呼ばれてきた。北は秦嶺山脈、東は長江の三峡、西はチベット高原、南は雲南、貴州の雲貴高原、四川文明は周辺世界と関係を持ちながらも、四川盆地を舞台に相対的に自立した文明を生み出した。

 中国料理の中の四川料理は、山椒(さんしょう)のしびれるようなマー(麻)と唐辛子の辛さ(ラー)が適度に混ざった独特のものである。麻婆(マーボー)豆腐、火鍋(ひなべ)、担々麺(タンタンメン)、回鍋肉(ホエクオロウ)、鍋巴(クオパ=おこげのあんかけ)など多くの人々に親しまれている。

 しかし古代の蜀にはマーラーの味はなかった。唐辛子はなかったし、油と鉄鍋と強いコークスの火力で一気にいためたり、揚げたりする料理は宋代以降の新しいものであるからだ。四川文明を探る面白さは、現代とは違う古代の四川料理を探っていくようなものであろうか。

【写真=四川省を流れる岷江】 



<3>「三星堆」の出土品
蜀の祭祀、宇宙観表現 王朝交代知る手がかり


 三星堆(さんせいたい)遺跡は、2つの小さな坑に青銅器、金器、玉器、象牙などが破壊されて投げ入れてあった。2号坑の発掘時の様子から、わずか2・5メートル、5メートル、深さ1・6メートルの小さな孔にどのように器物を投げ込んだのかが再現できる。

 現場検証のように細かく観察すると、1400以上の金、青銅、玉、石、骨と4600枚の貝のうち最初に投げ込んだのは小獣面、玉器、その後に大獣仮面、2メートル以上ある立人像は胴体で折り曲げて三分し、そのまま別々に投げ入れた。その上に神樹も細かく切り離して投げ、40にものぼる人頭像の首を坑全体にばらばらに投げつけている。

 1号坑の黄金の杖(つえ)も引き裂かれていた。故意に壊して坑に投げ入れたものであった。その後の金沙(きんさ)遺跡の発掘によって、三星堆遺跡の意義は蜀(しょく)の全体の歴史から見直すことができるようになった。

 発見当初は、とにかく縦目の巨大な獣面の異様な姿に圧倒された。立人像の大きさとそのポーズにも魅せられた。黄金のマスクの人頭像も、中原では見たこともない。発掘から17年、いつ見ても驚きには変わりないが、四川(しせん)文明の遺産として冷静に見ることができるようになった。

 小さな神壇は、破壊されて一部しか残されていないが、蜀の祭祀(さいし)の世界と宇宙観が、見事に表現されている。三星堆の2つの坑から出土した青銅器、玉器がどのような器物であるのかをさぐるヒントはこの神壇にある。

 「華陽国志(かようこくし)」には古代蜀の王朝の交代が簡単に記されている。蜀侯蚕叢(さんそう)(カイコ)にはじまり、柏灌(はっかん)(水鳥)、魚鳧(ぎょふ)(カモ)、杜宇(ホトトギス)とつづき、その後、長江中流の楚の地から入った鼈霊(べつれい)(スッポン)が治水に成功して禅譲され、開明帝となった。

 奇妙な名の王が登場するが、ここには成都平原の各地の勢力の交代が見て取れる。

 魚鳧から杜宇の交代のあと、開明への王位の継承は、地域の移動を伴っていた。三星堆遺跡から成都市の金沙や船棺(せんかん)遺跡へは、勢力の交代として位置づけられるが、同時に四川文明の遺跡が伝統として引き継がれていった。

【写真=三星堆遺跡の2号祭祀坑】



<4>遺跡から黄金出土
巧みに装飾 他を圧倒 王権のシンボル表現か


 腐食することのない黄金の輝きは永遠である。長江上流の金沙(きんさ)江も、金沙遺跡の金沙も、砂金の産出する土地を表している。地下深く岩石に混じった微粒の金が、風化作用によって地上の河床に堆積(たいせき)する。古代の蜀(しょく)の人々も、その自然の恩恵に気付き、黄金に魅せられた。

 三星堆(さんせいたい)一号坑からは金杖(きんじょう)、黄金仮面の金箔(きんぱく)、虎(とら)の形をした黄金の飾りが出土した。2号坑からも、小さくても多くの黄金が出てきた。微量でも輝きは同じだ。金の性質は叩(たた)いてのばせば10万分の1キロまで薄く、1グラムの金でものばせば3700メートルまで長くなる。わずかな金箔でも青銅製の人頭に張り付ければ、黄金仮面として他の多くの人頭像を圧倒してしまう。

 金沙遺跡からも黄金仮面、黄金の冠、太陽と鳥の飾り、蛙(かえる)の形の飾りなどが出土した。黄金仮面は小さいが、希少な黄金だけにかえって輝いて見える。太陽と鳥の円形飾りは、切り絵細工のためにやや厚めのものだ。4羽描くことによって、1羽の鳳凰(ほうおう)が太陽を巡っている動きが表現されている。切り抜いた太陽は、黄金だからこそ輝きが伝わってくる。

 金杖と金冠は古代蜀の王のシンボルかもしれない。杖(つえ)は持ち手の顔にまで届く長さだ。金冠もちょうど頭に戴(いただ)くことができる。蜀侯蚕叢(さんそう)(カイコ)にはじまり、柏灌(はっかん)(カワウなどの水鳥)、魚鳧(ぎょふ)(カモなどの水鳥)、杜宇(ホトトギス)と続き、その後、長江中流の楚の地から入った鼈霊(べつれい)(スッポン)が治水に成功して禅譲され、開明帝となった。金杖と金冠の主はこの中の誰であったのだろうか。

 金杖に打ち出した図柄は、地味な細工で見にくい。矢が水鳥と魚を打ち抜いている。金沙の金冠も不思議と同じ図案だ。持つ者だけが確認できればよかった。カワウを表現した水鳥と魚は柏灌と魚鳧であろうか。杖の先を故意に叩かなければ歪(ゆが)みや裂け目はできない。木製部分が自然に腐食したわけではない。王権のシンボルに何があったのだろうか。

【写真=三星堆遺跡から出土した金面人頭像】



<5>金沙遺跡と船棺遺跡
異様、蜀王の埋葬施設 クスノキの大木を使用


 金沙(きんさ)遺跡では、うってかわって小さな世界だ。成都市西郊の金沙で発見された遺跡は、三星堆(さんせいたい)遺跡よりも少し下る時期のものである。金沙遺跡の発見によって、三星堆遺跡の意味もようく分かるようになった。

 磨底河という川の両岸には3平方キロに及ぶ遺跡があり、中原では殷(いん)周時代に相当する。地上建築遺跡や墓地のほか、祭祀(さいし)遺跡では玉器、石器、銅器、象牙、シカの角などが発見された。

 黄金の小仮面と青銅の立人(りつじん)像は、小さな世界の代表である。わずか4センチほどの黄金の輝き、三星堆の黄金のマスクの人頭像のように、これも小さな人頭像にかぶせられていたのだろうか。三星堆の実物大の立人像に比べるとミニチュアだが、手は同じような祈りや踊りのポーズをとっている。王朝が交代したとしても、蜀(しょく)の祭祀の世界は三星堆から金沙へとしっかりと受け継がれていることが分かる。

 鳥と魚と猛獣と太陽、金沙の人々を取り巻く自然の世界が一つ一つの文物に表現されている。祭祀の犠牲になった人々の姿は石像に表現されている。悲しげな表情が伝わってくる。成都市内商業街の大型船棺(せんかん)墓葬は、現在の成都市内の中心部にある。開明帝以降、成都に入り、秦に滅ぼされるまで、蜀王の拠点であった。

 30メートル、20メートルの範囲に、わずか2・5メートルの深さの所に17件の木製の棺(ひつぎ)が並べられていた。うち9件が船型木棺、8件が木彫りの木棺である。戦国時代には地下深くに墓室を造り、地上に墳丘を築き上げる墓葬が全国に広がってきたが、まったく様相を異にする埋葬施設である。

 クスノキの大木をまるのまま使用し、船の形に彫り込んだ棺には圧倒される。これらの大型船棺に蜀王が埋葬されていたのだろうか。遺体と副葬品を詰めた部分は船室、船首にあたる部分は細くなっており、水を切って進めるようにせり上がっている。

 植物の種子と漆器は旅立つ死者のために、船棺に食糧を積み込んだ。蜀が絹の産地であるとともに漆器の生産地であったことを再認識できた。

 漆器の太鼓とばちや、瓢箪(ひょうたん)製の笛からは蜀の音楽が聞こえてきそうだ。蜀の人々はこの埋葬施設の上ではどのようなお祭りをしていたのだろうか。

(終わり)

【写真=船棺遺跡の出土状況】


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