H前九年合戦A 2004年12月24日

   

天然の要害
衣川村・月山(左)付近の東北自動車道東を流れる衣川(右)を南から望む。このあたりが衣川の関だったと考えられている。川の本流と山の絶壁が天然の要害になっていたと伝えられる

 激戦の背景に親子愛

 この世には、移ろわないものがある。

 悠久の自然がそうだ。

 親子の情愛もまた、移ろわない。

 1051(永承6)年に戦端を開き、いったん休戦した前九年合戦が、源氏と安倍氏の一族存亡をかけ、再び激戦となったのは、親子・親族の情愛が根底にあった。

 鬼切部(おにきりべ)(「おにきるべ」とも読む=宮城県鳴子町鬼首)で、陸奥守(むつのかみ)藤原登任(なりとう)軍が安倍頼良(よりよし)の軍に敗れたことを受け、朝廷は合議する。一致して安倍氏追討将軍に前相模守(さがみのかみ)・源頼義(よりよし)(988−1075年)を選んだ。

 翌1052年は、仏法が衰え、天変地異の相次ぐ「末法」の時代に入るとされていた。人々は恐れた。兵(つわもの)を選び、陸奥の戦火を鎮定するのが為政者の務め、と朝廷は考えたのか。

 合戦の経緯を記した軍記物語「陸奥話記(むつわき)」は、頼義を絶賛する。

 たとえば騎射(うまゆみ)に優れ、それを見た上野(こうずけの)守(かみ)平直方(なおかた)が、娘を嫁にやった。

 騎乗し弓を射ることが、武芸第1のものであることをこの挿話は物語る。

 また「沈着剛毅(ごうき)、武略に優れ、将帥の器である」。その威風に「会坂(おうさか)(逢坂=滋賀県大津市)以東の弓馬の士の大半は臣従した」。坂東武士の棟梁(とうりょう)だった。

 源氏に思惑

 頼義は、武威を高める好機到来と、勇んで陸奥国府(宮城県多賀城市多賀城付近)に着任する。その時、予想外のことが起きた。

 「にわかに天下大赦あり」 1052年5月、後冷泉天皇の祖母で、一条天皇の中宮(皇后)だった上東(じょうとう)門(もん)院彰子(いんしょうし)(988−1074年)の病気平癒祈願の大赦であった。

 追討されかかっていた頼良にすれば、一族が大赦で罪を免ぜられたことは望外の喜びだった。

 着任した頼義と、同じ音の名前では恐れ多い。頼良は頼時(よりとき)と改名、ひたすら恭順の意を表した。

襲撃伝える
安倍氏追討のきっかけにとなる阿久利河の襲撃は、宮城県志波姫町阿久戸地域だったとされる。現地には古戦場跡の標柱が立つ。一迫川を越えた後方の林のなかに、小さな八幡社の社殿が立つ

 1053(天喜元)年、頼義は、長く空席になっていた鎮守府将軍を兼務した。安倍氏の罪が許されたのに、蝦夷(えみし)征討の将軍に任じられるというのもおかしなこと。

 なんらかの思惑が源氏、あるいは朝廷にあったとしか考えられない。

 陸奥守の任期が終わる1056(同4)年、頼義は、管内の官物を収めるため鎮守府(水沢市胆沢城周辺)に入った。数十日巡回する間、頼時は平身低頭し、駿馬(しゅんめ)・金宝を頼義と、その将兵にも献上した。

 駿馬・金宝−。後に藤原氏の力の源泉ともなる財がここに見られることは注目できる。

 頼義はようやく将兵を従え、頼時ら安倍一族に見送られ国府へ帰還の途につく。

 途中、阿久利(あくと)河(宮城県志波姫町か)で野営中に頼義部下の陣を何者かが襲撃、人馬が殺傷された。

 襲われた藤原光貞(みつさだ)は「犯人は頼時長男(実際には兄がいた)の貞任(さだとう)に違いない。以前妹を嫁にほしいといってきたが、卑しい一族なので断った。それを恨んでいた」と頼義に告げる。

 頼義は、頼時に貞任引き渡しと処罰を告げる。

 この不可解な事件は、源氏が仕掛けたというのが通説だ。

 それどころか「頼義の謀略だった−もっと陸奥国で稼ぎたかった」(下向井龍彦著「日本の歴史07武士の成長と院政」2001年、講談社)と断じられるほどだ。

 頼時の宣言

 頼義の命令を頼時は、拒む。そして宣言する。

 「人としての道が世にあるのはみな妻子のためである。貞任たとえ愚かといえども、父子の情愛を捨てることはできない。−衣川の関を閉じよう。戦い利あらず、自分が死んだとしても構わない」と。

 一族みな、この言葉に賛同し、一丸となって衣川での防戦を決める。

 同年8月、頼義は朝廷から「頼時追討宣旨」を下される。再び開戦の時が迫った。

 合戦再燃を決意した頼時の宣言は、あったのだろうか。

 冤(えん)罪(ざい)のわが子を「貞任愚かなりといえども−」と、犯行を認めるかのようにいっていることなどから、宣言は陸奥話記が、追討を正当化しようと脚色した、との説も最近出されている。

 が、この記述は、蝦夷と卑しめられてきた一族の人間としての誇り・親子の情愛は、東北住民だろうと畿内の人間だろうと変わらない−。血をはくような思いでそう述べ、記録されたように感じられてならない。


 語る みちのくの遺産  気仙沼市長 鈴木昇さん

   義経伝説 地域に脈々

「平泉の世界遺産登録は東北全体を見つめ直す契機」と連携の大切さを説く鈴木昇さん=気仙沼市役所市長応接室

 −気仙沼市と平泉文化の密接なつながりを日ごろから重視しているが。

 藤原時代の平泉は、東日本全体を視野に入れた独立国家の建設を目指したと思う。その平泉文化が栄えた背景には、山も川も海も抱えるという地理的条件があった。気仙沼からは豊富な海産物と金を運んだと思われる。気仙沼は平泉の波止場として重要な役割を果たしてきた。

 −気仙沼地方には源義経と初恋の女性の悲話が伝えられている。

 京都の皆鶴(みなつる)姫は父親の兵法書を盗んで義経に見せたことが怒りに触れ、舟で流され、気仙沼に漂着した。住民に助けられるが、義経が駆け付ける直前に息絶えたという伝説。地域がこれを大切にしてきたのは、人々の間に平泉が生きている証しだ。奥州藤原4代は100年で幕を閉じたが、金色堂に見られる優雅な平泉文化を重んじる精神が現在まで脈々と息づいているのだと思う。

 −今後、平泉地方との連携をどう進めるか。

 一関市と気仙沼市を結ぶ国道284号沿線市町村の首長の皆さんは、雰囲気が似ていて、同じ歴史を共有していると感じさせられる。気仙沼市と両磐地方の広い圏域は山や川、海、温泉などの豊かな自然資源に平泉の世界遺産が加わることで、他地域を圧倒する理想郷になるだろう。新しく環境重視の地域づくりも各市町村に提案したい。温暖化防止などで国内でも高い環境基準を設定し、一丸となって取り組むことで人々に誇りが生まれるはずだ。かつて理想に燃えた平泉文化を基軸に、東北の進むべき道を一緒に求めるのが私たちの使命だと考えている。

(聞き手は一関支社 達下雅一)
文・学芸部 中村紀顕  写真・一関支社 高橋照雄




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