G前九年合戦@ 2004年11月26日

   

南限の衣川
衣川村・七日市場付近を流れる衣川。奥六郡の南限といえるこの地帯を出て南進するようになるほど、安倍氏の勢力は強大なものになった

 安倍氏、奥六郡に威光

 蝦夷(えみし)の英傑・阿弖流為(あてるい)の、史書に残る13年間の合戦は、彼と副将であろう母禮(もれ)等の投降・斬首(ざんしゅ)と引き換えに終わった。

 それから約250年後、伊沢(胆沢)、江刺、和賀、稗抜(稗貫)、志波(紫波)、岩手の奥六郡には、安倍氏の威光が満ちていた。

 なぞの出自

 安倍氏とは何者か。蝦夷が祖か、政府の役人の末えいなのか、明らかではない。

 ただ、蝦夷に出自が連ならなければ、地元に覇を唱えることは難しい。

 いえるのは、軍事豪族として奥六郡を実質的に支配し、奥州藤原氏を生み出したことだ。

 奥六郡支配は、当然胆沢城(水沢市)が拠点になったはずだ。

 ところが、考古学的にいえば、この時期胆沢城、多賀城(宮城県多賀城市)が機能していた痕跡はない。

 文献上も胆沢、多賀城といわず、鎮守府、国府と表記している。どこに所在したか、なぞだ。

 安倍氏と陸奥守(むつのかみ)が戦った前九年合戦(1051−62年)は、陸奥守側から戦端を開いた。

 合戦の名称について述べたい。

 10年ほど前まで「前九年の役(えき)」が一般的だった。しかし、中世の史料はすべて「合戦」と記し、史学界も今「合戦」と呼ぶ。この連載も合戦と表記する。

 また前九年とは、後三年合戦(1083−87年)に対比した「前」であり、合戦の12年間のうち、休戦をのぞいた実際の戦闘期間9年を指すとされる。

 わずかな記録しかない蝦夷争乱とは違い、前九年合戦は、軍記物語「陸奥話記(むつわき)」が戦いの経緯を残した。

 陸奥話記の筆者は、長く不詳とされてきた。

 1993年、上野武氏が論文「『陸奥話記』と藤原明衡(あきひら)」(古代学研究129号)で明衡(989−1066年)筆者説を唱え、多くの賛同を得た。

 明衡の息子に敦光(あつみつ)がいる。敦光は、藤原清衡の中尊寺建立供養願文の起草者となる。父子はともに文章(もんじょう)博士だった。

 現在読むことのできる陸奥話記のうち、尊経閣文庫蔵本に、群書類従本を参考とした「古代政治社会思想」(1994年、岩波書店)収録のものを中心にしながら、前九年合戦の経過をたどる。

 衣川の外へ

 発端は、冒頭の漢文71文字が伝える。

 「六郡の司に、安倍頼良(よりよし)という者がいた。忠良(ただよし)の子である。父祖ともに果敢で、自ら酋長(おさ)を称した」

 いわゆる“東夷(とうい)の酋長”。代々蝦夷の首長だった。衣川を本拠とした。

 その安倍氏が、分を越えて「衣川の外に出た」うえに、郡の司として集めた「税金の物納をせず、定められた労役にも従わなかった」ことが合戦の引き金だったとする。

 衣川の外に出た−とはなにを意味するか。

激戦の高原
安倍氏の軍と陸奥・出羽連合軍が激闘した鬼切部は鳴子町鬼首とされる。「鬼切部城趾」と書かれた案内板の立つ若神子原は、ススキがなければ、禿岳(中央奥)までを見はるかす高原だ

 盛岡市史第1巻(1978年)は「北上平野から衣川の関を出て磐井の山地を南に進出、(宮城県)栗原・玉造方面、つまり多賀城の支配圏に勢力を伸ばした」と説明する。

 国家の基本である徴税権を揺るがす出来事といえる。

 陸奥守藤原登任(なりとう)は永承6(1051)年、数千の兵を率い、安倍氏を攻めることとなる。前鋒は秋田城介(じょうのすけ)平重成(しげなり)が任され、軍勢は陸奥・出羽連合軍となった。

 頼良は「諸郡の俘囚(ふしゅう)で迎撃し、鬼切部(おにきるべ)で激しく戦う」。

 結果は「大守(陸奥守)の軍敗れる」。それどころか「死者、はなはだ多し」と、惨敗だった。

 阿弖流為に、征夷軍が大敗した悪夢の再現となった。

 鬼切部は、宮城県鳴子町の鬼首ではないかといわれる。

 鳴子の温泉街から、北西に国道108号を進む。荒雄湖の北西端を過ぎ、さらに宮城・秋田県境へと北上していく。

 道幅が急に狭まった左手が、高原になっていた。「鬼切部城趾(じょうし)」の案内板が立つ。

 禿(かむろ)岳(1262メートル)へと連なるこの高原が、実際の古戦場であるのかどうか−。わからない。

 地図で見ると、直線距離で北東約19キロには栗駒山(1627メートル)がそびえる。

 盛岡市史がいうように、磐井の山地を南に進出という表現は、鬼首周辺にとって、ぴったりに思えた。

 戦闘の詳細は記されていない。が、蝦夷得意の集団騎馬戦が、もし繰り広げられたのならば、逆巻くような馬と兵が高原に満ち満ちたであろう。


 語る みちのくの遺産  狂言師 野村 万作さん

   異次元演出する舞台

白山神社の能舞台を「時を超える力を持っている」と受け止める野村万作さん=東京都練馬区高野台の自宅

 −平泉との強い結び付きは、どのようにして生まれたか。

 昭和30年代前半、中尊寺から父の万蔵のもとに狂言の指導依頼が届き、私が赴くようになった。けいこは毎年2月か3月に行われ、夜行列車で未明の平泉駅に到着。雪の月見坂を革靴で何度も滑りながら登ったことを思い出す。夏は早稲田大、東京大、共立女子大、東京女子大の学生たちと合宿させてもらった。米国の劇団員たちが能舞台で貴重なふき掃除を体験したこともあった。

 −毎年夏の薪能に出演している。平泉の印象はどうか。

 能舞台は杉木立に囲まれて近代的なものが何もないため、昔の時代に想像的に遊ぶことができる。橋がかり(廊下)は絶妙の角度で設置され、亡霊があたかも異次元の世界から登場してくる距離感を感じさせる。「釣狐(つりぎつね)」を演じたときは、観客から「本当にキツネと対峙(たいじ)しているようだった」との感想が寄せられた。ここでは観客から柔らかで品が良く、心和む笑いが生まれている。地元のおばあさんが童心に帰ったときのような素晴らしい笑いだ。平泉のしっかりした文化を感じさせる。

 −世界遺産登録を目指す平泉にとって何が大切か。

 かつて、狂言は言葉の世界だから外国では理解されないだろうと言われてきた。しかし、舞台から観客一人ひとりに語りかけることで十分に理解されることが分かった。世界遺産は景観に重きが置かれるのが一般的だろうが、平泉はこれまでと違って、心というか内面に焦点を当てる方がふさわしいと思う。人と時代がつくってきた普遍的な結び付きを大切にしていきたい。

(聞き手は一関支社 達下雅一)
文・学芸部 中村紀顕  写真・一関支社 高橋照雄




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