F蝦夷 2004年10月20日

   誇り守り悲運の刑死

故国を思う
京都・清水寺の「清水の舞台」の下、道路をへだて、北を見はるかすように建つ「阿弖流為 母禮之碑」。人の背丈を越え、東北の輪郭の彫り込みのなかに2人の名を刻む

 蝦夷(えみし)の将帥・阿弖流為(あてるい)は、朝廷に殺される。

 死が終わりではなく、彼は英傑として永遠の命を得た。

 802(延暦21)年の死去から1200年後の2002年、作家高橋克彦さん(盛岡市)の、阿弖流為を描いた小説「火怨(かえん)」が原作のミュージカル「アテルイ」が、全国巡演された。

 県内はもちろん、奈良でも阿弖流為と蝦夷のシンポジウムが開かれた。

 本県の古代東北史研究団体・蝦夷研究会が、学問的に質の高い論文を発表し始めた。

 一連の出来事をみるとき、蝦夷の誇りを守るという阿弖流為の精神は生きている−。そう思わざるをえない。

 英傑の覚悟

 789(延暦8)年、胆沢平野での巣伏の戦いで、蝦夷軍を勝利に導いた阿弖流為が、再び正史に現れるのは802年。

 4月「造胆沢城使の坂上田村麻呂(征夷(せいい)大将軍)が、阿弖利(流)為、母禮(もれ)等種類500余人を率いて投降してきた、と奏上してきた」、7月「田村麻呂が2人を従えて上京」、8月13日「阿弖利為、母禮等を斬る」(日本紀略)。

 「投降した2人を帰すことで、他の抵抗蝦夷も懐柔できる」と田村麻呂は朝廷に懇願した。

 朝廷は「虎を養い災いを残すようなものだ」と一蹴(いっしゅう)した。

 現地を知る田村麻呂は、無念だったに違いない。

 789年と794年、二度の征夷を撃退した阿弖流為が、田村麻呂の第3次征夷軍に、投降したのはなぜか。

 789年から802年の13年間、特に後半の時期、蝦夷指導陣は何をし、何を考えていたか。

 水沢市埋蔵文化財調査センターの伊藤博幸副所長は、蝦夷社会の変容を指摘する。

 総計19万2000を超す大軍との3次の合戦で漸減する蝦夷勢、朝廷がとった坂東(東国)浪人4000人の胆沢移住策、着々と威容を現す胆沢城。

 なにより、長期戦による厭戦(えんせん)の空気。蝦夷内で阿弖流為ら武闘派が孤立するのは、時間の問題だった。

 命は捨てる−。その覚悟をしながら、武人として、人間として信頼できる田村麻呂に、阿弖流為らは運命をゆだねた。

 阿弖流為、母禮等は河内国交野(かたの)郡内(現大阪府枚方市)で処刑された。

 処刑の後、平定したはずの蝦夷の地で、乱が起きた。

 811(弘仁2)年、文室綿麻呂(ふんやのわたまろ)が征夷将軍に乗り出さざるを得ないほど、仰ぎ見た阿弖流為の刑死に、憤激した人々がいた。

 平安京遷都1200年の1994年、田村麻呂ゆかりの京都清水寺に関西在住の胆江出身者が中心になって、阿弖流為・母禮の顕彰碑を建てた。

 恩讐(おんしゅう)を越えた思いを感じる。

観音を信仰
音羽の滝で寺の開基者・延鎮上人に帰依した坂上田村麻呂夫妻が、深く観音を信仰。780(宝亀11)年、自宅正殿を寄進したのが始まりと伝えられる清水寺本堂。田村麻呂はその22年後、投降した阿弖流為

 悪路王とは

 田村麻呂の伝承が、平泉町・毛越寺から約5キロ西の達谷窟(たっこくのいわや)・西光寺(せいこうじ)に伝わる。

 「征夷の田村麻呂は、達谷窟が本拠の悪路王(あくろおう)を、毘沙門天(びしゃもんてん)の加護によって討つ。霊験に感謝し、清水寺を模した毘沙門堂を建立した」という。

 達谷窟をながめた。木の橋げたを組み、その上にお堂が乗っているさまは、由来通り清水寺の舞台によく似ていた。

 後に平泉の藤原氏を討つため進軍した源頼朝が、1189(文治5)年9月28日、窟の前で由来を聞いた−との記述が、鎌倉幕府の史書吾妻鏡(あづまかがみ)に残る。

 田村麻呂によって倒された在地の首領。しかもお堂創建の801年は阿弖流為が処刑される1年前のこと。悪路王を阿弖流為と見なす人も多い。

 悪路王は、宮沢賢治の詩「原体剣舞連」にも登場する。

 <Ho!Ho!Ho!

 むかし達谷(たった)の悪路王/まつくらくらの二里の洞(ほら)/わたるは夢と黒夜神(こくやじん)/首は刻まれ漬けられ/アンドロメダもかゞりにゆすれ/青い仮面(めん)このこけおどし/太刀を浴びてはいつぷかぷ−>

 「いつぷかぷ」とは溺死(できし)の方言。宮沢賢治語彙(ごい)辞典(原子朗編著)には「この場合のいつぷかぷは、溺死ではなく太刀で切りつけられ、もがく踊りのさま」とする。

 が、「首は刻まれ漬けられ」とか「いつぷかぷ」との表現に、悪路王の、蝦夷なればこその悲運の声と、延暦8年巣伏の戦いで、北上川に追い落とされ溺死した征夷の兵の嘆きが聞こえてくる。

 悪路王は、阿弖流為だったのだろうか。


 語る みちのくの遺産  東北歴史博物館館長 工藤 雅樹さん(仙台市)

   東北古代史の到達点

「平泉文化は京都との比較だけでは論じられない」と幅広い考察の重要性を説く工藤雅樹さん=宮城県多賀城市・東北歴史博物館館長室

 −古代蝦夷(えみし)を深く考察している。歴史の中でどう位置付けるか。

 日本列島の住民がたどってきた道は、地域によってさまざまだ。これまで蝦夷はアイヌか日本人かが論じられてきたが、アイヌを人種としてではなく、民族ととらえると2つの考えは高いレベルで統合できる。北海道を中心とした地域の縄文人の子孫は、何段階かの文化の変遷をたどりアイヌ民族となった。東北北部の縄文人の子孫は途中までは北海道の人々と類似した道を歩んできたが、徐々に日本民族の一員となる道をたどったのだ。

 −各地域の歴史、文化には固有の価値があると主張しているが。

 縄文文化や蝦夷の文化は農耕文化より劣っているとされてきた。だが、北日本では早くに自然と深くかかわりながら生きる知識と技術を高い水準まで到達させている。世界に目を向けても、もう歴史や文化の優劣を論じる時代ではない。東北の文化が関西の文化にいかに近いかを強調する論も考え直すべきだ。

 −蝦夷と平泉文化の関係をどう見るか。

 平泉の時代は東北古代史の到達点であり、中世・近世史の出発点でもある。平泉の時代の前夜には盛岡市以北に、敵の攻撃に備えた防御性集落がつくられ、蝦夷の世界が激動期を迎えていたことが分かる。私が西根町や九戸村で調査した遺跡も防御性集落の仲間で、このような集落の研究も平泉研究の一環と言える。

 −世界遺産登録を目指す平泉に何を望むか。

 平泉の価値は仏教文化だけではなく、さらに奥深い。平泉関連のさまざまな情報を世界から訪れる方々に提供する本格的な博物館の建設が岩手県にとっての緊急課題だろう。官民を挙げて取り組んでほしいものだ。

(聞き手は一関支社 達下雅一)
文・学芸部 中村紀顕  写真・一関支社 高橋照雄




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