朝廷軍の侵略に抵抗
 |
|
平泉町の高館橋から夕焼けを水面に映す北上川を望む。1215年前、上流の水沢周辺で、阿弖流為ら蝦夷と呼ばれた古代東北の人々が、律令政府の軍勢と戦い、大勝したーと記録に残る |
「自らは『東夷(とうい)の遠酋(おんしゅう)』『俘囚(ふしゅう)の上頭(じょうとう)』」
平泉の奥州藤原氏初代・清衡は、大伽藍(がらん)建築趣意書「中尊寺建立供養願文(こんりゅうくようがんもん)」のなかで、中華思想では東の遅れた民族とされる「東夷」、あるいは朝廷に服属した蝦夷(えみし)である「俘囚」に自分は連なる。図らずも皆の上に立った蝦夷の末流である−と出自を述べた。
蝦夷とは、古代東北の住民のこと。11世紀以降「えぞ」と読むようになり、後アイヌを指した。
日本が一つの国家を目指したとき、いくつもの国の一つとして、束縛を嫌い、律令政府から「まつろわぬ者」といわれた蝦夷は、公地公民の過程で征伐の対象となった。
朝廷は、征夷(せいい)の将軍を任命し、おびただしい軍を古代東北へ送った。
政府の侵略と蝦夷の抵抗の記録から、奥州藤原氏が平泉に進出する前史として、蝦夷の時代をたどりたい。
歌謡に記述
蝦夷が初めて史料に登場するのは、日本書紀・神武天皇即位前記と、意外に古い。
「えみしは1人で100人を相手にすると人は言うが、実際には抵抗するでもなかった」との意味の歌謡に出てくる。
えみしを意味する漢字は「愛瀰詩」。みやびな印象の当て字だ。
「口ほどでもない」と記す割には、この前段に「神風(かむかぜ)」「撃ちてし止まむ」と、神武軍を鼓舞する文が並ぶ。
日本書紀にはほかに、蝦夷について最も知られた記述がある。
日本武尊(やまとたける)の父・景行(けいこう)天皇の27年2月、武内宿(たけのうちのすく)禰(ね)が「東の夷(ひな)のなかに日高見(ひだかみの)国(くに)有り−すべて蝦夷という。土地は肥沃(ひよく)。撃ち取るべきである」と報告した文だ。
余談ながら、藤原氏を滅ぼし誕生した鎌倉幕府は、中世支配体制確立のため「東夷成敗権」を定めた。武内宿禰の報告は、鎌倉幕府によって法律として成文化した。
話を戻す。
日高見国は当初、常陸国(ひたちのくに)など政府の力の及ばない東国を指していた。
征夷の東進・北上に伴い日高見国といわれる領域も北上した。
724(神亀元)年、多賀城(多賀城市)が完成した。征夷の一大拠点が東北に移った。
政庁跡から南に0・4キロ、今に残る日本3大古碑の1つ多賀城碑(762年建立、国重文)。
俳人松尾芭蕉も訪れ、目にした碑文には「蝦夷国界」までを「百二十里」と刻んである。約60キロ、今の古川と築館の中間辺りから北を、律令政府は蝦夷の地と見ていた。
巣伏の戦い
789(延暦8)年6月、征東将軍紀古佐美(きのこさみ)率いる5万2800余の大軍は、衣川へと進出した。
 |
|
国特別史跡の多賀城跡(宮城県多賀城市)。正面の政庁南門跡に立つと、奥にから政庁正殿跡が見える。陸奥国(むつのくに)の国府として奈良時代から古代東北を統括した |
兵数、装備を考えると蝦夷との戦いは、鎧袖一触(がいしゅういっしょく)なはずだった。
結果は、律令政府を揺るがした。蝦夷に大敗したのだ。
「続日本記」に、蝦夷軍の将帥として阿弖流為(あてるい)が、劇的に登場する。
紀古佐美が、桓武天皇へ奏上した内容によると 「選抜した兵で北上川左岸の阿弖流為の居所に近づきました。巣伏(すぶせ)村に至り、賊(蝦夷)を追っているうち、前後を挟み撃ちにされました。官軍側の戦死は25人、矢を受けた者245人、川に飛び込んだ結果溺死(できし)した者1036人、裸で泳ぎ着いた者1257人−」
退路を断たれ、腹背を急襲されてうろたえたさまが伝わる。
阿弖流為のゲリラ戦の指揮ぶりは、抜きん出ていた。
巣伏の戦いがあったのはどの辺だったのか。
水沢周辺であることは確かだ。
北上川は、流路が何度も変わっているから、今の川べりで場所を特定することは難しい。
ただ、蝦夷の村がどの辺りだったかは、近年の水沢市埋蔵文化財調査センターによる発掘で、浮かびつつある。
考古学が、蝦夷の実像をどれだけ明らかにするか。
著しい調査の進展をみると、成果が表れるのはそう遠くない日であろう。
語る みちのくの遺産 駐日エジプト大使 ヒシャム・バドルさん
大きな心持つ北上川
 |
| 「文化がある場所は、人間らしさを尊敬できる所だ」と文明を語るヒシャム・バドル大使=駐日エジプト大使館 |
−大使は14年前と昨年の2度、平泉を訪れてどんな印象を持ったか。
日本の寺院にもミイラが存在することは驚きで、エジプトとの共通性を感じた。川も同じだ。エジプト人はナイル川の洪水と農業の関係から1年が365日の暦を作るなど川から多くを学んだ。北上川も流域に文化を培っている。北上川を「大きな心を持つ小さな川」と呼びたい。
−多くの共通性がある一方で、違いを感じるのはどこか。
エジプトには「健康は王冠のようなもの」ということわざがある。健康な人は、自分の王冠になかなか気がつかないものだ。同じように、日本人は決して貧しくないのに、それに気づかず常にお金の心配をしている。エジプト人は銀行に何もなくとも、みんな元気に笑っている。
−ピラミッドなどの世界遺産をエジプト国民はどう誇りにしているか。
エジプトの地はギリシャ人、ローマ人、アラブ人、英国人ら多くの人々が往来し、開放的で穏健、友好的な国となった。世界遺産にその影響を見ることができるし、他国の文化を尊重するエジプトの国民性につながる。日露戦争時、負傷した兵士を懸命に看護する日本の乙女の姿をエジプトの著名な詩人が作品にし、国民はその詩で日本文化を理解したという歴史もある。
−世界遺産登録を目指す平泉に何が大切か。
北上川とナイル川は民間団体が主体となって姉妹関係を結び、おかげでエジプト人が北上川を知るようになった。この交流を手本に、各国が平泉を学ぶ学習センターをつくったらどうだろう。世界のことには、人々はもっと大きな声を出すべきだ。立派な文化遺産を持つ人は、必ず強い意見を持っているはずだから。
(聞き手は一関支社 達下雅一)
文・学芸部 中村紀顕 写真・一関支社 高橋照雄
|