D慈愛包む善美の世界 2004年8月27日

 

航路見守る
藤原清衡が1町ごとに笠卒塔婆を建て交通路の安全を保障した陸奥縦貫の大道。津軽半島の終点とみられる外ケ浜の今別町高野崎(たかのざき)には、かつての笠卒塔婆のように灯台(中央、赤と白の塔)が建ち、航路の安全を守る

 平泉町・中尊寺の金色堂ほど、善美を尽くした建物を知らない。

 戦乱をくぐり、運命を切り開いて奥羽に平和をもたらした奥州藤原氏初代・清衡は、大事業を次々と成し遂げた。

 白河の関(福島県白河市)から外ケ浜(青森県津軽半島の主に陸奥湾沿い)まで、およそ500キロを超す街道一町(約109メートル)ごとに、道しるべともいえる笠卒塔婆(かさそとば)を建てた。

 在地の首領として、初めて長路の安全を確保した。

 街道の中央に建立したのが中尊寺。

 そして小さく貴い、宝石のようなお堂・金色堂を、天治元(1124)年に創建した。

  静けさ漂う

 盛夏の一日、金色堂を訪ねた。

 拝観券をあらためる門を入ると、すぐ右手に宮沢賢治文語詩「中尊寺」(草稿)碑がある。その一節「手(た)触れ得ね舎利(しゃり)の寶塔(ほうとう)」。

 仏道に帰依した賢治ならではの、金色堂への賛辞だ。

 黒色の石碑。お堂の大きさに見合うような、つつましい賢治の直筆が刻まれていた。

 金色堂覆(おおい)堂を、緩やかな石段の下から眺める。

 日中ながら日をさえぎる杉木立で、夕間暮れのようだ。鉄のとびらから、ほのかに金の輝きがこぼれた。

 覆堂に入る。空調を差し引いても、外気とは違う静寂が満ちている。

 降るような外のセミの声が、堂内にもこだましているのに、なお静けさが漂う別世界があった。

 阿弥陀(あみだ)堂でありながら、清衡ら藤原四代の葬堂でもある金色堂。中央、清衡壇。向かって左の基衡壇。右の秀衡壇には泰衡の首級をも安置しているという。

 「金・銀……珊瑚(さんご)・瑪瑙(めのう)」の七宝荘厳(しっぽうしょうごん)−。

 芸術と宗教が一体となった善美の世界が、静かに輝き続ける。

 賢治の文語詩「中尊寺」の最後の部分「大盗は禮(らい)して没(き)ゆる」の心情が、わかった気がした。

 中尊寺の千田孝信貫首にお会いしたとき、二つのことを教わった。

 「金色堂は金箔(きんぱく)で光っているのではない。清衡公の恩讐(おんしゅう)を超えた心が輝いている。光堂(ひかりどう)とはそういうことだ」

 「中尊寺建立供養願文(こんりゅうくようがんもん)に『諸仏摩頂(しょぶつまちょう)の場(にわ)』とある。諸仏が訪れた人々の頭(頂)をなで(摩)<つらいこと苦しいこともあったろうによく我慢してここまで来た。ゆっくり休みなさい。耐えるんだよ>と包み込んでくれる安らぎの場にしたい−。その清衡公の精神が、お山にこもる」

 感銘を受けた。

 あらためて金色堂を眺める。

 清衡、基衡、秀衡壇に並ぶ諸仏は、慈愛をたたえていた。

 奥羽の覇者

 他の僧坊、堂宇ことごとく失われながら、清衡時代の建物として唯一残り、国宝第一号の栄をになった金色堂。奇跡というほかない。代々の一山僧侶と地元民の献身があったに違いない。

 覆堂を出た。左手の経蔵へ向かう途中、芭蕉の「五月雨の降(ふり)残してや光堂」句碑が古色然とあった。

 大治3(1128)年7月16日、清衡は逝去する。73歳。

 自らを「俘囚(ふしゅう)の上頭」(蝦夷(えみし)の首領)と自負した彼の死を、中御門(なかみかど)右大臣藤原宗忠(むねただ)の日記「中右記(ちゅうゆうき)」は同年7月29日、伝聞により死去の日を誤りながらも「去る13日、陸奥の住人清平(きよひら)卒去(しゅっきょ)すと云々(うんぬん)73」と記した。

 身分のある人物の死を意味する「卒去」。

 奥羽の覇者と宗忠も認めざるを得なかった。

 清衡の偉大さは、東北の誇りである。


 語る みちのくの遺産 文化庁長官 河合隼雄さん

 人も神もすべてが一体

「平泉の人々には一木一草を大事にする心を感じる」と町の印象を語る河合隼雄文化庁長官=東京・文化庁長官室

 −今年、熊野が世界遺産に登録された。どう受け止めているか。

 建物ではなく、広く場が認められたことが素晴らしい。熊野の参詣道は、歩いていても、立ち止まってたたずんでいても気持ちがよい。通過する道ではあるが、とどまっていると、そこが中心だと感じられるような所だ。世界の人々が、そういうことを理解し始めたことがうれしい。

 −人々の意識が変わってきたのだろうか。

 これまで世界は、飛行機がどれほど飛べるか、ロケットがどこまで行けるかという科学技術の進歩に力を注いできた。しかし、それだけではだめで、世界の人々はもう一度、自然とのつながりを考え直すようになってきた。そこに日本の文化がピッタリとはまったという感じがする。

 −中尊寺、毛越寺を訪れて平泉にどのような印象を持ったか。

 平泉は、お堂だけでなく、地域全体が大事なんだということを訪れてみて分かった。地域が大事だということは、住んでいる人々も大事だということだ。平泉では、人も神も自然も一体となっていて、人々の生活そのものの中に宗教的な深さや、癒やしの気持ちが存在する。よそから訪れた人は地元の人と顔を合わせ、短いあいさつを交わすだけで気持ちがすっきりする。平泉は、まさにそのような町だ。

 −世界遺産登録に向け何が重要か。

 自信を持って今の姿を大事にすることだ。毛越寺の庭園に立つと、周囲に人工の物が全く見えない。その景観を大切にしていってほしい。妻も平泉を訪れたことがあり、次はぜひ、夫婦一緒に訪問したい。

(聞き手は一関支社 達下雅一)

文・学芸部 中村紀顕  写真・一関支社 高橋照雄




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