〈35〉御遺体学術調査 2007年2月25日


非戦への道

前夜からのかすかな雪が中尊寺金色堂覆堂と、参拝道にうっすらと積もった。コンクリート製の覆堂は昭和の大修理に合わせ1965年にしゅん工。以来金色堂と藤原氏の非戦の誓いを抱き続ける

 情熱実り金色堂再興

 1945年、中尊寺金色堂は、朽ちかけていた。

 「おくの細道」で俳人松尾芭蕉(ばしょう)が

<光堂(ひかりどう)は三代の棺(ひつぎ)を納め三尊の仏を安置す。七宝散り失(う)せて、珠(たま)の扉風に破れ、金の柱霜雪に朽ちて、すでに頽廃(たいはい)空虚の叢(くさむら)となるべきを、四面新たに囲みて、甍(いらか)を覆ひて風雨を凌(しの)ぎ、しばらく千歳(せんざい)の記念(かたみ)とはなれり>

と見聞を記した金色堂。

 平泉藤原氏初代清衡(きよひら)が、平和と非戦を誓って建立した中尊寺は、太平洋戦争に敗れ、文化立国を日本が目指した時こそ輝くべき寺院だった。

風雨に耐え

現在の覆堂ができるまで金色堂を室町時代以来守り続けた旧覆堂(国重要文化財)の内部。中央に藤原秀衡公らの800年御遠忌(ごおんぎ)で1986年、多田厚隆二十六代貫首が筆を執った塔婆(とうば)が立つ

 悲憤の思い

 しかし、藤原氏の遺体存否を明かさず、金色堂は虫害・破損・傾斜が進み、丈六(じょうろく)仏のひざには雨漏り水がたまることさえあった。

 「このままにしておけない」

 悲憤の思いが、戦後の大プロジェクト実現へと突き進む。

 中尊寺と金色堂、ひいては平泉の文化遺産にとって、画期的な出来事となった「御遺体」学術調査と、昭和の金色堂解体大修理である。

 二大事業推進は、中尊寺の僧・佐々木実高(じっこう)師(1904−77年)の強烈な実行力によって成し遂げられた。

 三代の遺体が、いわゆるミイラ化して存在するのかどうかさえ、明らかにしない。それが中尊寺一山のしきたりだった。

 実高師は、御遺体が現実に存在すること。さらにさまざまな疑問を解消し、保存を万全にするため、理化学的・医学的・歴史学的学術調査の必要性を精力的に説き歩いた。願いはかなった。

 1950年3月22日午前10時、清衡・基衡(もとひら)・秀衡(ひでひら)三代公の遷座式によって遺体の学術調査は始まった。

 当時の事情は、実高師の女婿で幼少年期を一関市で過ごした作家・内海(うつみ)隆一郎(りゅういちろう)さんの著書「金色(こんじき)の棺(ひつぎ)」(ちくま文庫・93年)に詳しい。

 また、実高師の二男で中尊寺仏教文化研究所所長・邦世(ほうせい)さん(「語る」にインタビュー掲載)が編集校訂した「中尊寺御遺体学術調査最終報告」(同寺刊・94年)は、調査成果を正確に伝えている。

 遷座式の日、中尊寺は前夜からの春の雪で白一色だった。

 「寒かった」。稚児として列していた邦世さんは記憶する。

 金色堂から三代公の棺が運び出されようとした時、立ち合っていた調査団員の作家大佛(おさらぎ)次郎(じろう)さん(1897−1973年)が、桜の枝を手向けた。

 前日、月見坂を上る時でさえ左手から離さなかった桜は、鎌倉から持参したものだった。

 余話ながら、実高師は幼少年期を鎌倉で過ごした。平泉で果てた源義経(よしつね)。彼の異母兄頼朝(よりとも)の幕府の地・鎌倉、そして鎌倉の桜。因縁を感じる。

 錯誤明らか

 棺は本坊へ遷座した。三体の全身と、首級(しゅきゅう)のミイラ。未曾有の調査が秋まで行われた。

 成果は目覚ましかった。三代公死去時の年齢、体格などが推定された。最大の焦点は「錯誤」のことだった。

 基衡と秀衡の遺体が逆に寺には伝わっていた。首級も忠衡(ただひら)といわれていたものは、四代泰衡(やすひら)であることが刀創(とうそう)などからはっきりした。

 結果的に、大佛さんが「北方の王者」で開棺時に秀衡と記したのは、実は基衡だった。

 とはいえ、三代ともに偉丈夫。「北方の王者」に間違いはなかった。

 遺体学術調査の翌51年、金色堂は文化財保護法による国宝第一号に指定された。

 「国民の宝は今くずれんばかりだ。今の機をのがせば悔いを千載に残す」。実高師は61年6月、来山した衆議院文教委員会委員に金色堂解体修理を陳情。文教委側も予算措置を約束した。

 62年10月、藤島亥治郎(がいじろう)東大名誉教授(2002年、103歳で死去)を委員長に、各界最高権威が結集した保存修理委員会を組織。以後、国家規模で工事は6年かかった。当時で1億6400万円を費やした。

 1968年5月1日午前10時半、金色堂は落慶式法要を迎えた。

 翌2日の岩手日報朝刊は、社会面トップ記事で法要を伝えた。

 「さつき晴れの落慶法要/金色堂の光よみがえる/参列者も感慨新た/献茶の儀、舞踊をそえて」

 漆芸、金工、木工。あらゆる面で精緻(せいち)かつ、新たな技法が明るみに出た。修理は困難を極め、四十数回の修理委員会を開いた。藤島委員長の手腕が会議をまとめ、世紀の大修理を成し遂げた。

 修理委員会結成から30年後の92年、平泉遺跡群発掘調査指導委員会でも委員長を務めた藤島さんを何度か取材した。

 少し甲高い、それでいて力強い声と、全身にみなぎる生気を思い起こす。修理委員会の場でもあのように、会議を主導したであろうと想像できる。

 今、金色堂は、修理委員をはじめ一山の僧、地元住民の熱意によって藤原氏四代が眠り、阿弥陀(あみだ)如来(にょらい)をまつる。それだけではない。平和と、文化の保存と、継承に尽力した大勢の思いを記憶しながら光っている。

 語る みちのくの遺産 中尊寺仏教文化研究所所長 佐々木邦世さん

 保存へ人々の心耕す

 −お父上が、御遺体学術調査と金色堂解体修理の実現を推し進めた理由はどこにあったのか。

 昭和5(1930)年に御遺体保存を確かなものにしようと、当時科学的方法とされていた石綿を棺に入れた。その処置に父もかかわっていた。それが逆に御遺体に悪影響を与えていないかを心配していた。御遺体の確認と、学術的にしっかりした調査をし、保存を万全にしたかったはずだ。

 金色堂についても「去年と違う、春と違ってきた」というようにその場で暮らしている者として荒廃を体で感じ、いても立ってもいられなくなった。中尊寺の回生にしたことが結果として全国に平泉・藤原氏・中尊寺・金色堂・御遺体のことが知られるようになった。

 −平泉藤原氏の精神的支柱ともいえる金色堂とは、どういう存在であるのか。

 金色堂を金色堂たらしめるのは拝む、ということに尽きる。拝むお堂だ。私は山田俊和(しゅんわ)新貫首にも「月に何度か、堂の中に入って拝んでいただきたい」とお願いした。中に入れば息や歩行で少々金箔(きんぱく)がはがれることもあろう。それでも構わないではないか。こちらで考える寸法や、文化財保存の枠にお堂をいかにはめこむかではなく、平泉の風、川、空気とともに存在してきたのが金色堂。混じり気のない浄土への思い、訪れた人たちの藤原三代への思いが凝縮したお堂だ。

 −世界遺産としての「平泉−浄土思想を基調とする文化的景観」を、われわれはどう整備するべきか。

 世界遺産に向けて、やらなければならないことは数多くある。高く評価された文化的景観だが、その景観にそぐわない物を造ったり、遮断したりする障害物が多い。鉄塔とか看板がそうだ。韓国、イタリアなど各国の世界遺産を数多く見てきた。どこにも平泉のような障害物はない。誰が悪いということではなく、みんなの責任だ。私も黙ってはいられない。改善に全力を尽くす。「心を耕す」、それが文化だと思っている。

【写真=「平泉の文化的景観は、そこに生きる人たち、足を運んでくれた人たちが『良いな、大事にしよう』と思う心が支える」と自坊で話す佐々木邦世さん=平泉町中尊寺円乗院】

文と「語る」インタビュー・学芸部 中村紀顕  写真・一関支社 高橋照雄



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