〈34〉文人来訪 2007年1月26日


山河を望む

西行が、桜の見事さを詠じた束稲山。平泉町の高館義経堂から望むこの景観を目にした松尾芭蕉は「国破れて山河あり、城春にして草青みたり」と涙を流した

 今に残る絶唱あまた

 みちのく。元来は「みちのおく(道奧)」と、辺境を指した言葉ながら、声にしてみると響きは、みやびにさえ聞こえる。

 武門の家柄を捨て、風を友とした平安末の歌僧・西行(さいぎょう)(1118−90年)、旅に生きた江戸期の俳人・松尾芭蕉(ばしょう)(1644−94年)。みちのくへ大勢の文人、旅人が歩を運んだ。

 目指すは平泉−。

 藤原氏全盛のころ、滅亡後、そして近・現代。平泉を訪れた人々が目にした風土は、中尊寺建立(こんりゅう)供養(くよう)願文(がんもん)に込められた平和の思想とともに、平泉藤原文化の気骨を形づくっていた。人々の足跡は、今もたどることができる。

<きゝもせずたはしね山の桜花吉野の外にかゝるべしとは>

旅姿の俳聖

金色堂旧覆堂の南わきに立つ旅姿の松尾芭蕉像。1989年5月、おくのほそ道300年記念で中尊寺が東京芸大・戸津圭之介教授に依頼し制作した。道路奥に見えるのが現在の金色堂覆堂

 西行の歌集山家(さんか)集(しゅう)にある一首。北上川東にそびえる束稲山の桜に心打たれた。「奈良・吉野以外にこんな桜があったのか」。絶唱が口をついた。

 西行は、俗名を佐藤義清(のりきよ)という。院の御所警護の「北面の武士」だった。

 祖先は平将門(まさかど)の乱を鎮圧した藤原秀郷(ひでさと)。秀郷は、安倍頼良(よりよし)(後に頼時(よりとき)と改名)の女婿・藤原経清(つねきよ)の祖先でもある。その経清が平泉藤原氏初代清衡(きよひら)の父。

 西行と平泉藤原氏は、同族であった。

 掲出歌は、桜だけでなく、同族藤原氏の栄耀(えいよう)への感嘆ともいえる。

 黄金と平和

 西行は生涯に2度平泉を訪れた。最初の年には諸説がある。20代後半、数え27歳前後のことらしい。2代基衡(もとひら)の時代となる。

 2度目は69歳、藤原3代秀衡(ひでひら)晩年のころだった。

 歌枕の地を訪ねた初度と異なり2度目の平泉は、平重衡(しげひら)の焼き討ちで滅した奈良東大寺の大仏鍍金(ときん)(金メッキ)のための貢金を請いに来た。

 東大寺再建を進めていた僧・重源(ちょうげん)の依頼だった。

 重源は、同族とはいえなぜ西行を派遣したのか。重源と西行は、平泉藤原氏に何を期待したのか。

 東大史料編纂(へんさん)所長の保立(ほたて)道久(みちひさ)さんは昨年11月、一関市で興味深い講演をした。講演のなかに答えはあった。

 「東大寺大仏は平和の象徴。大仏再建は平和の回復を意味した。その黄金を藤原氏が貢ぐことは、平和に尽力することでもあった。藤原氏の平和思想を全国に認めさせる。それが重源の心で、西行もまた真意を知っていた」

 大意、以上である。

 国家の威信財である黄金。金による平和戦略によって(奥州)合戦の芽を摘むとの意図があったということだ。

 秀衡、源頼朝(よりとも)ともに真意を察した。

 頼朝は、先手を取った。「国家への貢金は自分(頼朝)を介するように」。平泉の功にはさせなかった。

 重源の志した「平和と藤原氏の結びつき」はならなかった。

 西行の絶唱、それだけが今に残った。

 西行2度目の来訪から約500年後。芭蕉は弟子の河合曾良(そら)を伴い平泉を訪れた。

 「おくの細道」の旅の到達点だった。

<夏草や兵(つわもの)どもが夢の跡>

<五月雨の降り残してや光堂>

 多くが知る名吟である。俳聖の感動を、われわれも平泉の地に立てばまた、共感できる。

 盛衰を思う

 農民とともにあった詩人・宮沢賢治も平泉を詠じた。

 <七重(じゅう)の舎利の小塔(ことう)に

 蓋(がい)なすや緑(りょく)の燐光

 大盗は銀のかたびら

 おろがむとまづ膝だてば−>

で始まる文語詩「中尊寺」で心象を述べた。

 金色堂手前に賢治自筆を刻んだ詩碑が立つ。

 歌人斎藤茂吉の一番弟子だった佐藤佐太郎(1909−87年、宮城県出身、歩道短歌会主宰)が、平泉を訪れたのは師・茂吉が2月に急逝した1953年秋のこと。

 曇って寒い10月29日、毛越寺から中尊寺金色堂へ巡った。

 <金堂のうちのつめたき塗床にたまたまにして金の箔散る>(歌集「地表」)

 当時、旧覆堂(おおいどう)の内にあった金色堂内陣に、中尊寺総務局長佐々木実高(じっこう)師が導き、佐太郎は歩みを進めた。

 この時の佐太郎を、弟子で歌人の菊沢研一さん(盛岡市)は内陣の外、間近から見つめていた。

 「実際には狭い場所なはずだが、内陣と外との空間をものすごく広く感じた。背負う歴史の遠近感とでもいうものだろうか」。菊沢さんは今、振り返る。

 金色堂から白山神社能楽殿に向かって北へわずか行く。手前の西、竹林を背にして、おおらかな印象の石碑がある。

 盛岡市出身の俳人・山口青邨(せいそん)(1892−1988年、夏草主宰)の秀句が刻まれていた。

 平泉藤原氏の、栄枯盛衰を思い、碑を眺めるうちに「無上と無常」の感情が心に迫ってきた。

 句碑にはこうある。

 <人も旅人われも旅人春惜しむ>

 語る みちのくの遺産 仙台伊達家第18代当主 伊達やす宗さん

 文化保存の志継いで

 −平泉とのかかわりを。

 毎年8月14日に中尊寺で行われる薪能にご案内をいただいている。能は中尊寺一山出身で喜多流職分の佐々木宗生(むねお)氏の教えを受けている。5月に仙台で開催される青葉能には中尊寺から貫首をはじめ多くの方々においでいただいている。

 東京国立文化財研究所で漆の研究員を務めていた当時、1964年の金色堂解体修理の際に劣化が著しく修復できないまま保存されていた巻柱(まきばしら)の科学的保存処置を間近で学んだ。2000年の達谷窟(たっこくのいわや)西光寺(せいこうじ)(平泉町)1200年大祭に当たって毘沙門堂(びしゃもんどう)正面に掲げる扁額(へんがく)の揮毫(きごう)を頼まれたのも思い出だ。

 −伊達家は藩祖政宗公以来、中尊寺をはじめとする寺社や旧跡の保護に努めた。その理由をどう受け止めるか。

 伊達家は奥州を本拠地とした最初の鎌倉御家人だが、出自は藤原。政宗公はそれを誇りに思っていた。

 慶長遣欧使節に託した書状に「奥州王伊達政宗」と名乗ったのは、12世紀、奥州に独立国を築いた藤原3代を意識していたと思う。奥州にかつての輝きを取り戻そうという奥州ルネサンス。それは藤原氏が京文化を取り入れたのと同様に、積極的に桃山文化を導入したことからもうかがい知れる。

 −世界遺産登録へのエールを。

 貴重な文化は受け継いだ人が次代に伝える役目を担う。伊達家歴代の当主は初代の遺志を忠実に守り2代忠宗、4代綱村らは寺領保護や礎石保全などのほか、境内に杉や松を植えた。

 将来、寺の改築などに備えた措置で、中尊寺の月見坂などに見える杉の巨木はいずれも当時に植栽されたもの。その志を引き継いでいくのは現代に生きるわれわれの役目。その思いが世界につながっていくと思う。

【写真=「藩祖政宗公には、かつて奥州に覇を唱えた平泉藤原氏への思いがあった」と推察する伊達やす宗さん=仙台市・伊達家伯記念會】

※券の刀がしたみず

(聞き手は一関支社 小笠原裕)

文・学芸部 中村紀顕  写真・一関支社 高橋照雄



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