〈33〉藤原文化の波及 2006年12月30日


頼朝が建立

源頼朝が、平泉藤原氏の精神文化に触れて建立した永福寺跡(神奈川県鎌倉市二階堂)。園池の跡を囲むような低い山並みが浄土式庭園の姿を想像させる

 大伽藍や浄土式庭園

 平泉藤原氏の盛衰をたどるとき、文化の波及の不思議さを思う。

 藤原氏の時代は、四代約100年で終わった。が、輝きを放った文化は、日本史上に大きな影響を残した。

 浄土思想に基づく大伽藍(がらん)こそ、その象徴だ。

 奥州合戦の最中、あるいは藤原氏四代泰衡(やすひら)討滅後、源頼朝(よりとも)は、藤原氏初代清衡(きよひら)が整えた奥大道笠(かさ)卒塔婆(そとば)を奥州で見たに違いなく、また四代が心血を注いだ伽藍を巡礼した。

 堂塔を見、心打たれた頼朝は、平泉に倣った寺院の建立を思い立つ。

 「今日永福寺(ようふくじ)の事始めなり」(吾妻鏡(あづまかがみ)1189年12月9日条)。頼朝が鎌倉(神奈川県)に創建し始めた大寺の初出である。

 吾妻鏡は、頼朝が奥州合戦などで亡くなった数万の怨霊(おんりょう)をなだめ、三有(さんぬ)(現世、来世、その中間の世)の苦から救おうと建立を発心した、と記す。

 同時に永福寺は、平泉の二階大堂(大長寿院)を模したもので、「二階堂」と号することも明らかにしている。

 1966年に国史跡となった永福寺跡は、鶴岡(つるがおか)八幡宮から頼朝の墓前を通り、鎌倉(かまくら)宮(ぐう)のすぐ北東に位置する。低く連なる山に囲まれるような平地は、浄土式庭園を容易に想像させる。周辺は二階堂という地名で、往時をしのばせていた。

 さて、頼朝は極楽浄土を目指し永福寺を建立した。現実の歴史は、平和の理想とほど遠い歩みをたどった。

 1247年、鎌倉で内紛が起きた。頼朝の姻族である北条氏打倒へ、有力御家人・三浦氏が軍を起こした。三浦泰村(やすむら)・光村(みつむら)兄弟のうち、弟光村は、永福寺に陣を構えた。

 平和の理念

「泉」を分割

福島県いわき市内郷にある白水阿弥陀堂。南大門跡から北へ向かい中島を過ぎると、浄土式庭園に阿弥陀堂が建つ。平泉藤原文化の影響を強く感じる

 圧倒的な北条勢に敗戦が避けられなくなったとき、兄の泰村は、故頼朝の法華堂(ほっけどう)を名残の地として選ぶ。光村ら一族郎党も永福寺から転戦しながら集結。往時の快事を語らった後、一斉に自刃して果てた。

 今、頼朝墓所に通じる石段の手前左手に残るお堂が、三浦一族憤死の場所となった。

 結果として永福寺は、戦火を免れた。

 この合戦で幕府の実権をにぎった北条時頼(ときより)は、鎌倉五山筆頭となる建長寺(けんちょうじ)を創建した。

 鎌倉の精神的支柱は、平泉藤原氏と同じ極楽浄土思想が発端であった。

 しかし、建長寺建立以降、臨済禅に代表される鎌倉仏教が浄土思想に取って代わった。

 藤原氏の理念を引き継ぎながら、「平和」が鎌倉に根付くのには時間が必要だった。

 その意味で、1405年12月に最終的に焼亡した永福寺は、藤原氏の平和思想を鎌倉に現出したモニュメントとして、記憶にとどめたい。

 平泉から、宗教的感銘を受けたのは、頼朝だけではない。奥州合戦に参陣した鎌倉方諸将も同様だった。

 福島県国見町阿津(あつ)賀志(かし)山(やま)で奮戦した下野(しもつけ)国(栃木県)の宇都宮氏三代朝綱(ともつな)は、益子上大羽(同県益子町)に尾羽(おは)寺(でら)を建立した。

 極楽浄土を模して、阿弥陀(あみだ)堂を中心に池、多宝塔を配したという。

 同国の足利氏二代義兼(よしかね)も奥州合戦後、樺崎(かばざき)寺(でら)(同県足利市)を建立した。浄土式庭園を備えた同寺跡は、2001年国史跡に指定された。

 武家も影響

 平泉藤原氏の浄土的景観を直接再現したのは、福島県いわき市の願成寺(がんじょうじ)白水(しらみず)阿弥陀堂(国宝)と、その庭園だ。

 寺伝は、いわきの豪族岩城則道(のりみち)に嫁いだ清衡の娘・徳(とく)姫が、則道没後、徳尼と称し1160年に阿弥陀堂を創建した−とする。

 寺伝とは別に、徳姫を藤原二代基衡(もとひら)の娘、あるいは三代秀衡(ひでひら)の妹と記す書籍、伝承もあり、確かなところはわからない。

 白水という呼称を、平泉の「泉」の字を上下2文字に分割したと、藤原氏とのゆかりを強調する伝承もある。

 確かに、低い山を背に、池を手前にした阿弥陀堂は、塔山の手前に広がる平泉町毛越寺浄土式庭園と見まごうばかり。

 平泉文化の影響を指摘する専門家が多いのも、うなずける。

 文化の波及は、大伽藍と浄土式庭園だけではない。

 1993年1月、平泉町志羅(しら)山(やま)遺跡で12世紀の白磁(はくじ)水注(すいちゅう)(水差し)の完形品が出土した。

 水注を鑑定した矢部(やべ)良明(よしあき)東京国立博物館陶磁室長(当時)は、同年2月10日付岩手日報夕刊に「(発見は)ひとしおの重みをもつ快挙」と原稿を寄せた。

 四耳壺(しじこ)、水注、梅瓶(めいぴん)(口の狭いとっくり型壺(つぼ))の白磁三点セットは、平泉の威信財(ステータスシンボル)であった。

 それはまた、鎌倉でも武家の威信財だったことが出土遺物で明らかになっていた。

 矢部さんは寄稿のなかで「武家文化の黎明(れいめい)を語る12世紀、平泉藤原氏は武家文化の創造に力強く参加している」と結論づけた。

 平泉の文化は、武家文化創造の母体であることをわれわれは、忘れるべきではない。


 語る みちのくの遺産 東北芸術工科大大学院長 赤坂憲雄さん

 蝦夷やアイヌの顔も

 −主唱する東北学の立場から見た東北とは。

 京都・奈良、東京を中心にした「ひとつの日本」という見方では東北のような遠隔の地は文化的に遅れたイメージを押しつけられがちだ。しかし、実際に歩いてみた東北は歴史的、文化的多様性を持ち、西の影響を受けながらも北方、アジアにつながる全く違った顔を併せ持つ。その両面性を視野に入れる必要がある。

 −平泉文化をどう位置づけるか。

 平泉の歴史を見ると男性サイドは京都に連なるが、女性サイドは蝦夷(えみし)が浮き彫りになる。同様に平泉文化は京都を手本にしながらも蝦夷やアイヌ、縄文につながる文化が隠されている。

 画家の故岡本太郎氏は著書「日本再発見−芸術風土記−」の中で、金色堂を「平安朝貴族文化の優雅と気品、その最高の表現」としながらも「古い時代のうめきのように訴えかけてくる蝦夷の気配」を感じ取っている。浄土思想の底流をなす蝦夷の息吹。それはコインの裏表のような関係にあり、両側を見ることで初めて全体像がつかめる。

 −平泉文化遺産の世界登録が東北にもたらす意義は。

 12世紀の奥州藤原氏の勢力範囲は現在の東北地方に見事に重なっている。平泉の時代、東北は自らの都を持っていた。

 しかもその都は仏教の浄土思想に根差した平和の都だった。東北の都が軍事都市ではなく、文化の都であったことを誇りにしたい。

 当時の仏教思想は一つのグローバルスタンダード(世界標準)。日本列島の中で平泉は辺境の地だが、東アジアの仏教思想の広がりという視点で見ると東アジアの最先端、フロンティアだった。平泉はそれをわれわれに教えてくれた東北の大切な心のよりどころである。

【写真=「平泉が平和の都だったことは東北の誇り」と強調する赤坂憲雄さん=山形市・東北芸術工科大】

(聞き手は一関支社 小笠原裕)

文・学芸部 中村紀顕  写真・一関支社 高橋照雄



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