〈32〉泰衡遺臣の面目 2006年11月30日


中世の面影

西にそびえる栗駒山(中央奥)に向かって、中世絵図に合致するような景観が続く一関市厳美町本寺地区。中尊寺経蔵別当の荘園だった歴史があり、世界文化遺産申請に欠かせない

 英傑たちの逸話脈々

 源頼朝(よりとも)に攻められ、1189(文治5)年9月に滅んだ平泉藤原氏。敗れたとはいえ、藤原氏による奥羽統治の人材の奥深さを示し、遺臣が面目を立てた事柄は、数多く伝えられている。

 四代泰衡(やすひら)が平泉館(ひらいずみのたち)に火を放ったことによって、奥羽の土地台帳である「省帳(しょうちょう)、田文(たぶみ)」など行政文書類が焼失した。

 頼朝は、為政に必要な省帳、田文の内容を土地の古老に尋ね求めた。すると(清原)豊前介(ぶぜんのすけ)実俊(さねとし)と弟の橘藤五(きっとうご)実昌(さねまさ)が承知していることがわかった。

 参上した兄弟は、そらんじていた土地台帳を絵図をもって正確に指し示した。感心した頼朝は両人を召し抱えた(吾妻鏡(あづまかがみ)同年9月14日条)。

 この能吏兄弟とみられる名前が、平泉町柳之御所遺跡から出土した遺物に残っていた。

 「人々(ひとびと)(に)給(たまう)絹日記(きぬのにっき)」と呼ばれる、心覚えとして墨書した折敷(おしき)がそれ。

 折敷とは、1人用の板製角盆のこと。出土したのは、1990年度第28次発掘調査だった。

 園池を伴う中心建物群の、28SE16と名付けられた井戸の中にあった。

 年輪年代法という測定結果から、1138年伐採の木で作られた盆で、58年以降に埋められた井戸とわかった。

 折敷には、国衡(くにひら)・泰衡と考えられる「信寿(しず)太郎」「小次郎」ら12人の名前と狩衣(かりぎぬ)など衣服の種類、赤根(茜(あかね))など色が記されていた。

 何かの儀式の折、着用する衣服支給のために書きとめられた。

 人名のなかに「橘藤四郎」「橘□五」という人物がいた。この2人が豊前介実俊・橘藤五実昌ではないか−という説が研究者の間では主流になっている。

 吾妻鏡の記述は、平泉出土遺物によって裏付けられた。文献史学と考古学の成果があいまった輝かしい結論だった。

 同時に、奥羽の生き字引さながらに、頼朝をうならせた兄弟の存在は、平泉藤原氏の抱えていた家臣団の高い教養を示したといえよう。

 心蓮の尽力

兼任軍決起

八郎潟方向に沈む夕日を、秋田県五城目町の森山から望む。中央光る部分が八郎潟調整池へ注ぐ馬場目川河口だ。この一帯に、源頼朝へ決戦を挑んだ大河兼任軍が集結した

 敗者の側ながら、平泉で鎮護国家を祈ってきた僧にも傑物がいた。

 実俊・実昌兄弟が土地台帳を頼朝に報告する4日前の9月10日、頼朝を訪ねた中尊寺の経蔵別当大法師心蓮(しんれん)は、その代表者といえる。

 藤原氏三代建立の寺塔のことを述べ、鳥羽院(とばいん)の御願所(ごがんしょ)であること、住民を安心させるため寺塔安堵(あんど)(所領の承認)が必要であることを訴えた。

 願いは実った。頼朝はまず経蔵の所領である「東は鎰懸(かぎかけ)、西は山王(さんのう)の窟(いわや)、南は岩井河、北は峯の山堂の馬坂(まさか)」の境界地域を安堵した。

 この一帯は、骨寺(ほねでら)村荘園遺跡(一関市)として、当時に近い貴重な景観を残し、今われわれも目にすることができる。

 平泉の文化遺産(浄土思想に関連する文化的景観)の普遍的な価値を明らかにしようと今年6月、同市で開かれた平泉の文化遺産国際専門家会議。国際記念物遺跡会議(ICOMS)オランダ委員会ロバート・デ・ヨング委員は言った。

 「感銘を受けたのは地形が(中世)そのままの姿で残っていた骨寺村荘園遺跡だった」

 国外の専門家が最も高く評価したのが骨寺村荘園遺跡だったことを思えば、中尊寺僧・心蓮の尽力は今に実を結んでいるといえる。

 藤原氏滅亡後、旗下の奥羽武士団の意地を貫いたのは、泰衡遺臣で出羽(秋田県)の大河次郎兼任(かねとう)だった。

 1190年1月6日の吾妻鏡に、兼任決起がみえる。

 「去年冬以来反逆を企て義経(よしつね)、あるいは義仲(よしなか)嫡男朝日冠者と称して蜂起した。軍勢7000余騎、鎌倉を目指す」と。

 ところが、秋田・大方(大潟)から志加(しか)の渡(わたり)を通過する際、氷が割れ兼任配下の兵5000余が溺死(できし)した。

 兼任の姓・大河と一致する地名は秋田県・五城目町に「大川」と残る。同町は八郎潟沿い。志加の渡は八郎潟とされる。

 この変事の証しを、近年の著作「大河次郎兼任の時代」(小野一二著、無明社)、「平泉物語」(金野静一著、熊谷印刷出版部)は<1963年、八郎潟干拓工事中に泥のなかから武具、馬具が大量に見つかり、干拓建設事業所の広報で報じた>などと紹介する。筆者は、その広報を探せないでいる。

 話を戻す。凶事に遭いなお兼任は、屈しなかった。

 鎮圧に出向いていた鎌倉方の御家人由利維平(これひら)に「古今、身内の敵を討つのは聞くが、主人の敵を討った例は無い。自分がそのはじめとなる」と、大義を堂々述べ送った。

 所信通り、由利を大杜(おおもり)山(秋田市)で、津軽では宇佐見平次(へいじ)を撃破した。

 だが、奮戦も無勢では限りがあった。軍は徐々に減り、兼任は宮城県栗原市・栗原寺で、きこりに囲まれ殺された(吾妻鏡1190年3月1日条)。

 栗原寺は、源義経ゆかりの寺院。兼任は、亡き義経に何かを伝えたかったのかもしれない。

 語る みちのくの遺産 東北歴史博物館学芸員  政次(まさつぐ) 浩さん

 熊野信仰、影響色濃く

 −古代・中世を中心に東北の信仰や仏像研究を通して感じたことは。

 東北に仏教がもたらされたのは7世紀ごろと考えられ、従来からの自然崇拝と溶け合って独特の精神世界を生んだ。仏像も、都では寄木(よせぎ)造りが多いが、東北は一木(いちぼく)造りでケヤキのような堅くて重い素材を使い、ウロ(空洞)や節があっても利用する。

 木に対する崇拝の念が根底にあり、鑿目(のみめ)を残した鉈彫(なたぼり)は神木・霊木から神仏が姿を現す最中を表現するための技法ではないかと感じる。

 −東北の信仰でそのほかに特徴的なのは。

 弁慶伝説を含め、熊野信仰ゆかりの文化財や芸能が数多く伝えられ、昔も今も尊崇を集め続けていることが挙げられる。熊野信仰は、神と仏は一体であるという神仏習合の考えの中で来世の阿弥陀、現世の薬師と観音の三尊が集まる浄土と見なされ、12世紀に全国に広まった。

 特に東北は代表的な出羽三山をはじめ、岩手山や早池峰山、青森県の岩木山など各地のシンボル的な名山に三尊がまつられた形跡が認められる。

 −熊野信仰と平泉のかかわりは。

 秀衡期に平泉街区域の北方に今熊野社、南方にも熊野の王子社が勧請(かんじょう)されている。

 一方の紀州熊野には「秀衡桜」や、秀衡が子どもを預けた岩屋、秀衡奉納と伝えられる小太刀など、数多くの秀衡伝説が残っている。数多い東北からの参詣者の代表として、はるかみちのくに君臨する畏敬すべき人物として語り継がれたのだろう。北陸をはじめ各地に残る秀衡伝説は今後とも研究の必要がある。

 熊野は古くから社会的弱者や女性にも門戸を開いてきた。それは万人の浄土を願った中尊寺供養願文と相通じるものがあり、その理念は世界に認めらなければならない時期に来ていると思う。

【写真=「東北は遠隔地にもかかわらず、じつに熱心に熊野信を受け入れた」と指摘する政次浩さん=宮城県多賀城市・東北歴史博物館】

(聞き手は一関支社 小笠原裕)

文・学芸部 中村紀顕  写真・一関支社 高橋照雄



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