〈31〉藤原氏滅ぶ 2006年10月29日


樋爪館望む

紫波町の五郎沼から北西の東根山(ほぼ中央)、南昌山(その右側三角の山)方向を望む。比爪氏の居館・樋爪館は右手の林の陰に位置する

 厭戦の心 文化を今に

 奥羽の覇者として100年近くの独立を保ってきた平泉藤原氏は、四代で命運が尽き、滅亡は避けられなかった。

 鎌倉幕府の史書吾妻鏡(あづまかがみ)は、藤原氏の最期を伝える。

 四代泰衡(やすひら)は1189(文治5)年8月10日、阿津賀志山(福島県国見町)合戦で源頼朝(よりとも)軍に敗れ、北へ敗走した。頼朝は急追した。

 逃れる途中の同月21日、泰衡が平泉館(ひらいずみのたち)を焼いたことは前回述べた。その結果、奥羽の土地台帳である「省帳(しょうちょう)、田文(たぶみ)」の文書類は失われた。

 だが、平泉進駐1カ月後の9月23日、頼朝が無量光院を巡礼していることから、同寺院は焼亡してはいなかった。平泉館(柳之御所)と無量光院の近さを思えば、泰衡はむやみに火を放ったのではなかった。

 敗走する際、拠点に火を放つのは「自焼(じしょう)」といい武家の作法の一つであった。入間田(いるまだ)宣夫(のぶお)東北大名誉教授が示唆してくれた。

 火をかけての撤退を、泰衡の短慮というのは当たらない。

 泰衡が敗死

頼朝が布陣

紫波町の陣ケ岡・蜂神社。源頼朝のもとに、藤原泰衡の首が届けられた地といわれる。征夷(せいい)大将軍坂上田村麻呂が社を建立、前九年合戦時には源頼義も布陣したと伝えられる

 といって対頼朝戦の再起を図ったのでもないことは、泰衡の頼朝あて書状で知れる。

 「源義経(よしつね)をかくまったことは父秀衡(ひでひら)がやったこと。自分はあなたの命令のまま義経を討った。褒められこそすれ征伐されるような罪はない。なにとぞ御家人にしてほしい。ご返事は比内郡(秋田県北部)あたりに届けてほしい」。大意以上のようなものだった。

 本心がどこにあったのかは不明だ。

 鎮守府将軍・陸奥(むつの)守(かみ)を歴任した秀衡の嫡男としての名誉を思えば、この書状の内容は惜しまれる。

 手紙は、泰衡の居所を示していたことにもなる。

 頼朝は比内郡の泰衡を追い、まず厨川(盛岡市)に向けて進撃した。

 泰衡は、郎従河田次郎(じろう)を頼り比内郡贄(にえ)の柵(さく)(秋田県大館市)にたどり着いた。河田は、ねぎらうどころか攻めかかり9月3日、泰衡は討たれた。

 中尊寺御遺体学術調査(1950年3月)によると、金色堂内に安置された泰衡の首のミイラには、頭頂から顔まで16カ所に切創があった。泰衡今生一代の奮戦の証しだったのか。

 泰衡敗死の報は、すぐに頼朝の元に届いた。にもかかわらず頼朝は北進を止めなかった。

 9月4日、頼朝軍は志波郡に到着。泰衡の親族で、比爪(ひづめの)館(たち)(紫波町)を構えていた比爪俊衡(としひら)も泰衡同様、館に火を放ち逐電した。

 頼朝は、陣岡(じんがおか)の蜂杜(はちのもり)(同町)に布陣した。方面軍が合流し軍士28万4000騎が一帯に満ちた。おびただしい源氏の白旗と、揺れるススキを月が照らしていた。

 6日になって泰衡の首を河田次郎が持参した。主を裏切った河田はその場で斬罪(ざんざい)。泰衡の首は、頼朝祖先の源頼義(よりよし)が安倍貞任(さだとう)の首をさらした前九年合戦の故事に倣い、長さ八寸(26・4センチ)のくぎを打たれ、さらされた。

 泰衡首級のミイラには、くぎのあとがはっきりしていた。吾妻鏡のこのくだりの記述は、正確だった。

 戦火を逃れ

 前九年・後三年合戦と、戦いに勝利しながら奥羽に地歩を築けなかった頼義・義家(よしいえ)の無念を思い、頼朝は厨川まで進軍し、古跡を見聞した。執念といえよう。

 逃走していた比爪俊衡と弟季衡(すえひら)らが降伏してきた。老いた俊衡には、比爪の地の所領が安堵(あんど)された。

 陣岡(陣ケ岡)の蜂杜(蜂神社)、比(樋)爪館は現在紫波町史跡になっている。

 陣ケ岡・蜂神社は現代まで開発もなく、発掘調査されたことはない。それだけ往事の風景に近いものがあるのだろう。ただ現地に立っても、28万余もの軍勢が駐屯した、と想像するのは難しい。

 樋爪館跡遺跡は、赤石小の校地で2004年まで23次にわたって発掘が続いている。愛知県の常滑(とこなめ)三筋壺(さんきんこ)など、平泉町柳之御所遺跡出土遺物に似た陶器やかわらけ(素焼きの杯)が見つかった。

 時代は12世紀第4四半期のものが多い。平泉藤原期の終末、あるいは鎌倉期初めとみられている。比爪俊衡が所領安堵され、奥州合戦後も当地にとどまったことを思えば当然の発掘成果ともいえる。

 頼朝による一連の作戦で、泰衡の祖父・藤原基成(もとなり)(元陸奥守)が捕虜に、秀衡四男高衡(たかひら)らも降伏。朝廷から泰衡追討の宣旨が到着し、戦後ながら大義が整った。

 ここに平泉藤原氏は、滅亡した。

 泰衡の消極的な外交と合戦ぶりが、この結果を招いた。ただ、彼の厭戦(えんせん)の心は、結果的に平泉文化を後世に残した。

 平泉17万騎を指揮し徹底抗戦したなら、平泉は戦火で跡形もなく滅んだに違いない。

 とすれば泰衡は、藤原氏初代清衡(きよひら)の非戦・平和思想にかなっていたとはいえないか。

 平家との戦いでも動かなかった頼朝が、自ら軍を率い鎌倉をたって約50日。奥羽の終戦処理が残っていた。

 語る みちのくの遺産 中尊寺仏教文化研究所主任  菅野 成寛さん

 なぜ平泉 なぜ中尊寺

 −長年の平泉研究で最も興味をひかれる点は。

 最大の問題は「なぜ中尊寺が成立し得たか」。初代清衡は鎮守府の幹部とはいえ、持仏堂の一つも持てればせいぜいの身分。それが突如、境界の衣川を越えた平泉に巨大な寺院を造営した。その理由を明らかにしたい。

 −理由について、どう考えているか。

 清衡が所属した鎮守府には直轄の付属寺院が存在したはずで、その擬定地が北東北最大の山林伽藍(がらん)が営まれた国見山廃寺(北上市)。国見山の伽藍は12世紀初頭には廃れるが、その時期は清衡が平泉に進出した時期に重なる。

 国見山廃寺の塔跡の調査では、塔が廃絶した痕跡が一切見つからず、塔の移築が推定される。清衡が、同廃寺の権威を平泉に移し、新たに中尊寺として造営したのではないか。そう考えなければ突然の中尊寺伽藍の出現は説明できない。

 −政治的背景はどうか。

 国家の陸奥国支配は、9世紀初頭の胆沢城造営によって衣川以北は胆沢城の支配下に置かれ、10世紀前期にはいわゆる奥六郡体制となった。

 その体制が続いていれば清衡が平泉に進出する必要はなかったが、多賀国府直轄の平泉に拠点を構えたということは、同国府が主導した奥六郡体制が新段階に入ったことを意味する。清衡の平泉移住は同国府による陸奥国内政策の一環であったと思われる。

 このため清衡に陸奥押領使という公的な軍事権限を与え、衣川以南に勢力を伸ばす素地が整えられた。中尊寺造営は陸奥国の新支配体制にリンクした清衡の一大事業だったといえる。その最大の原動力こそ、清衡をはじめ人々の仏教信仰だったのは言うまでもない。

 昨年の衣川遺跡群の調査では清衡時代のかわらけなども発見され、「都市平泉」研究に新たな展開をもたらした。奥大道と衣川が交叉(こうさ)する同遺跡群の発掘調査は緒に就いたばかりであり、遺跡群が保存されて学術調査へと進むことを強く望みたい。

【写真=「中尊寺出現は突然だった。その謎を解明したい」と話す菅野成寛さん=中尊寺】

(聞き手は一関支社 小笠原裕)

文・学芸部 中村紀顕  写真・一関支社 高橋照雄



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