〈30〉奥州合戦 2006年9月30日


防御の土塁

福島県国見町の国史跡阿津賀志山防塁。地元で二重堀といわれるように、今もくっきりした堀跡が奥手前の厚樫山から延びる。写真左手から北進してきた頼朝軍を奥州軍が迎撃した

 戦い敗れ焼け野原に

 文治5(1189)年閏(うるう)4月30日、衣河館(ころもがわのたち)を平泉藤原氏四代泰衡(やすひら)に攻められ、自害した源義経(よしつね)の首は、平泉の高平(たかひら)(高衡)によって6月13日に鎌倉・腰越の浦に到着した。

 源頼朝(よりとも)の重臣・和田義盛(よしもり)、梶原景時(かげとき)が駆けつけ検分した。黒漆櫃(ひつ)のなか、酒に浸された首を見て、2人は泣いた。今は敵。とはいえ、ともに戦った勇者の首級(しゅきゅう)だった。

 鎌倉幕府の史書吾妻鏡(あづまかがみ)は、そのときを淡々と記述する。

 今でいえば7月に相当する真夏、しかも死後約1カ月半たって検分されたことが後、義経の死を疑問視する理由の1つとなった。腐乱が進み、義経と確認できたはずはない、というのだ。

 泰衡が衣河館を急襲したのは偽戦で、義経は事前に北へ逃れていたのではないか−北行伝説だ。

 義経の首を、間を置き鎌倉に護送したのも、平泉の謀略といわれた。

 しかし、時間がかかったのは、護送した平泉側の事情だけではない。頼朝が鎌倉入りを一時止めていた。

 というのは、頼朝は大々的な塔供養を6月9日に予定していた。

 なんの塔か、吾妻鏡は記さなかった。

 頼朝に近い公卿九条兼実(かねざね)の日記玉葉(ぎょくよう)の文治4(1188)年2月13日条には、頼朝が京都守護一条能保(よしやす)に使者を送り「亡母のために五重塔婆を造営する。今年、自分(頼朝)は厄年なので一年間殺生を禁断する」と伝えている。

 塔供養とは、この五重塔かもしれない。

 いずれ、朝廷から馬を下賜され、導師も下向、多くの家来を従え挙行する塔供養が終わるまで、義経の首を届けるな、と奥州に飛脚を送った。

 早い検分を望んだとしても、平泉側ではどうしようもなかった。

 源氏の威光

 朝廷から追討の宣旨(せんじ)が出されていた義経を、平泉の平和のために襲い、死なせた泰衡のもくろみは大きく外れた。

 義経と、かくまう奥州を討伐する。それは頼朝の口実にすぎなかった。

 義経が誅殺(ちゅうさつ)されようと、奥州は攻める。平家既になく、平泉三代秀衡(ひでひら)も没し、義経も排除した時点で、もはや奥州は頼朝の脅威ではなかった。

 ただ、武士の頂点に立ち源氏の威光をみせるには、挙国の動員令を発する必要があった。

 頼朝は89年2月9日、奥州出陣を決断し遠くは南九州の嶋津庄地頭忠久(ただひさ)に「7月10日までに武装し鎌倉に参着せよ」と動員令を伝えていた。

 同様に義経の死が伝えられながら、頼朝の岳父北条時政(ときまさ)は6月6日、奥州征伐を祈る願成就院を上棟した。

総柱建物跡

平泉町柳之御所遺跡で見つかった5間×2間の総柱建物跡。白い円は柱穴。毛越寺前で見つかった倉町遺跡の高屋(丈のある倉庫)に類似する。近くでも倉廩の可能性がある建物跡が発見された

 戦は避けられない。泰衡は、追い詰められた。

 7月19日、頼朝は奥州に向かって進発した。3方面に分けた鎌倉軍は最終的に28万4000騎。東海・北陸方面は重臣に任せ、大手(正面)の軍を頼朝自ら率いた。

 泰衡を総大将とする奥州軍は、迎撃態勢を取った。福島県国見町の阿津賀志(あつかし)山(やま)(厚樫山)に城壁を築いた。

 阿津賀志山を起点に、南の逢隈河(あぶくまがわ)(阿武隈川)まで「にはかに口五丈の堀を構え」(吾妻鏡)、泰衡異母兄の国衡(くにひら)が最前線の指揮をとった。

 迎撃の軍2万、頼朝軍の実数は不明だ。

 奥州軍と鎌倉軍のただ一度の大会戦は8月8日、戦端を開いた。義経忠臣、佐藤継信(つぐのぶ)・忠信(ただのぶ)兄弟の父で藤原氏重臣の佐藤庄司基治(もとはる)らが陣没した。正面の攻防は激戦が続いた。

 泰衡が退却

 10日、鎌倉方の小山朝光(ともみつ)が阿津賀志山をう回、国衡陣所の背後を突いた。奥州軍は崩れた。国衡も転進の途中敗死した。

 国分原(こくぶがはら)・鞭楯(むちのたて)(仙台市榴ケ岡付近)に布陣し、戦況を見守っていた泰衡は退却した。

 吾妻鏡8月21、22日条によれば、平泉館(ひらいずみのたち)を過ぎつつ泰衡は郎従に命じ館、高屋、宝蔵に火を放った。

 頼朝が平泉入りしたとき、焼け野原に「倉廩(そうりん)一棟だけ残り、金銀珍宝が満ちていた」という。

 阿津賀志山の堀は、今も現地に国史跡阿津賀志山防塁として残る。

 1979年、福島県教委は発掘調査をした。厚樫山中腹を起点とし阿武隈川に向かって延長約3・2キロ。V字型に切り込む薬研(やげん)堀が姿を現した。

 大半が二重の堀に三重の土塁。難攻の防御線のはずだった。

 平泉町柳之御所遺跡の調査も、奥州合戦時の姿に迫りつつある。

 泰衡が火を放ち敗走した後、焼け残っていた倉廩とも思われる高屋跡の柱穴が発掘で見つかり、9月初め説明会が開かれた。

 頼朝が平泉に進駐したときの平泉館は「主は既に逐電(ちくでん)し、家はまた煙と化す。−ただ颯々(さつさつ)たる秋風、幕に入るの響きを送るといへども、蕭々(しょうしょう)たる夜雨、窓を打つの声を聞かず」(吾妻鏡)。

 見はるかすものみな、泣くかのような雨の景だった。

 当時の雨は、今検出される遺構にも等しく降った。その情景を思い、歴史の記憶を遺構のなかに見据えていきたい。

 語る みちのくの遺産 東北学院大名誉教授  大石 直正さん

 絵図の景観そのまま

 −平泉文化遺産の歴史的位置付けを。

 古代は奈良・京都の「みやこ」が中心だったが、中世は地方の時代。地方に生まれた政治権力として最初に花開いたのが平泉だった。地方の時代の先駆けとして中世の黎(れい)明(めい)を告げる大きな役割を果たしたといえる。

 −絵図が残る骨寺村荘園遺跡(一関市)とのかかわりは。

 大学院の学生だった1957年に友人と一緒に初めて訪れた。中尊寺に伝わる絵図に対応する地形、景観がそのまま残っていて感激した。

 骨寺村絵図は、家や水田の形などを詳細に描いた「在家絵図」と、村の宗教施設のための仏神田の配置を記した「仏神絵図」の2つがある。

 中世には法華経の行者などの聖(ひじり)といわれる人々が道路や水田開発などに大きな役割を果たした。在家絵図からはそうした開発の歴史や、今とは大きく異なる中世の農村の姿をうかがい見ることができる。

 一方、仏神絵図には骨寺村の宗教世界が描かれ中世の人々の精神生活の豊かさを知ることができる。年貢の品目などからは山や畑でも多様な生産活動を行っていたことも分かる。骨寺村荘園遺跡は中世以来の村の姿を丸ごと体験できる貴重な場所である。

 −世界遺産登録に向けて遺跡保存への提言を。

 村は人間の生活の場の原点。だが、今はその村が崩壊してしまい、中世の絵図は残っていても都市化されて場所すら分からないところもある。

 骨寺村は地下から発掘された遺跡とは違い、生きている村だ。保存には難しさもあるが、住民には世界遺産の村として誇りを持って保存していってもらいたい。そのためには行政をはじめ各方面の支援が必要だ。そして何よりも、多くの人に遺跡の価値を知ってもらうことが大事だと思う。

【写真=「骨寺は貴重な『生きている』村。その価値を広く知ってほしい」と強調する大石直正さん=仙台市泉区の自宅】

(聞き手は一関支社 小笠原裕)

文・学芸部 中村紀顕  写真・一関支社 高橋照雄



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