B願文に託す非戦の心 2004年6月23日

 中尊寺の寺院群、いわゆる大伽藍(がらん)建立は、平泉の初代・藤原清衡が、悲願とした大事業だった。

本堂の藤原清衡、基衡、秀衡、泰衡四代公の位牌(いはい)の前で祈りを捧げる中尊寺僧侶。平和への願いは脈々と受け継がれている

 なぜ寺院群建立にこだわったのか。

 それを理解するため、1126年に書かれた建築趣意書「中尊寺建立供養願文(こんりゅうくようがんもん)」(国重要文化財)について触れたい。

 これこそ清衡の平和の心が凝縮されたものにほかならない。

 前回、願文には藤原輔方(すけかた)が書写(1329年)したものと、北畠顕家(あきいえ)の書写(1336年)した2巻が、中尊寺大長寿院に伝わると紹介した。

 輔方本の端書(はしがき)には落成を祝う「落慶」の日に、朝廷の勅使(ちょくし)・按察使(あぜち)(藤原)顕隆(あきたか)、唱導(しょうどう)(導師)は比叡山の相仁已講(そうにいこう)らが連なったとする記述がある。

 顕官の出席だけでなく、願文の起草者は、現代でいえば東京大総長にあたる、文章博士・大学頭を歴任した藤原敦光(あつみつ)。

 敦光の父・明衡(あきひら)は、清衡の父・経清と祖父・安倍頼時ら一族が源氏に敗れた前九年合戦(1051−62年)を記した「陸奥話記(むつわき)」の著者とされる人物。奥羽との因縁を感じる。

 清書したのは、勅使顕隆の弟で能筆家として知られた朝隆(ともたか)だ。

 清衡の思想

 当代一流の顔ぶれがそろって願文は完成した。清衡の並々ならぬ意志がうかがわれる。

銘に寺創建のことなどを伝える中尊寺梵鐘。撞座(つきざ)部分の摩耗(まもう)がはなはだしい。それだけ平和希求の音を響かせてきた

 伽藍を列挙した願文は、「2階の鐘楼一」の記述に及び、その役割を次のように述べる。

 「右一音(いっとん)の覃(およ)ぶ所千界を限らず。抜苦与楽、普(あま)ねく皆平等なり。官軍夷虜(いりょ)の死事、古来幾多なり。毛羽鱗介(もううりんかい)の屠(と)を受くるもの、過現無量なり。精魂は皆他方の界に去り、朽骨(きゅうこつ)は猶此土(なおしど)の塵(ちり)と為(な)る。鐘声の地を動かす毎に、冤霊(えんれい)をして浄刹(じょうさつ)に導かしめん」

 日本書紀の景行天皇27年2月、武内宿禰(たけのうちすくね)の天皇への報告に「東の夷(ひな)のなかに日高見国(ひだかみのくに)有り−是総(これす)べて蝦夷(えみし)と曰(い)ふ。亦土地沃壌(またくにこ)えて曠(ひろ)し。撃ちて取りつべし」とされて以来、征夷(せいい)軍の侵略が相次いだ。

 清衡自身、前九年合戦で、父と一族を滅ぼされた。後三年合戦では妻子を殺され、異父弟を討つ運命にあった。

 東北と自らがたどってきた悲劇の歴史を思う。

 「陣没した官軍や蝦夷の死、狩猟を避けられなかった北方世界では鳥獣、魚介にも数多くの犠牲が出た。すべての、ゆえなくして倒れた命を、寺の鐘の鳴るごとに等しく浄土に導きたい」−。清衡は、願文で心のなかに平和のとりでを築け!と切に祈った。

 同時に、願いを民衆と共有するには、目に見える大伽藍が必要だった。

 「戦争は人の心のなかで生まれるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない」「(第二次大戦は)無知と偏見を通じて人類の不平等という教養を広めることによって可能にされた戦争−」

 これは、1945年11月に制定された国連教育科学文化機関(ユネスコ)憲章前文だ。

 願文に込められた清衡の平和思想は、819年後のユネスコ精神に先んじていた。

 遺産の神髄

 中尊寺讃衡蔵(さんこうぞう)を訪ね、願文写本を見た。顕家の雄渾(ゆうこん)な筆致は、清衡の精神が乗り移ったかのようだ。


 参道をはさんだ向かい側に木造茅葺(かやぶ)きの鐘楼が見えた。

 モミジの葉が屋根に届きそうに茂る。鐘楼に通じる石段は、竹のさくが上るのを拒んでいた。

 梵鐘(ぼんしょう)がかすかに見えた。

 願文にある2階造りの鐘楼は1337年に火災で失われた。後、この地に再建された。今ある鐘は南北朝の1343年の鋳造。平和の精神をしっかり引き継いだのは間違いない。

 梵鐘を大切に保存するためかなり以前から突かなくなった。その“禁”を破り、2001年の「9・11米同時多発テロ」の犠牲者を追悼し、02年元日、特別に突いた。

 非戦の鐘の音は、願文の心を乗せ響いた。

 余韻にこもった願文の心は、実は世界遺産の神髄といっていい。


 語る みちのくの遺産 東北大名誉教授・高橋富雄さん

 新世界つくる羅針盤に

「東北が平泉にまで戻ることができたなら、新しい日本をつくる母体になり得る」と論を展開する高橋富雄さん

 −平泉を研究するきっかけは何か

 終戦時の学問への反省が出発点だ。歴史上、日本は中央志向で進んできた。みちのくは、日本ではない日本ととらえられ、東北の人々のコンプレックスになった。しかし、東北の人々が逆に大和的ではないことを特色として生かしたなら、新しい日本を築く担い手になれる。その思いで本格的に歴史に取り組み、平泉へとつながった。

 −平泉が歴史で果たした役割は

 奈良や京都だけが日本なのでなく、きちんと政治を行ったもう1つの日本があることを藤原時代の一世紀にわたって示した。東北型日本と大和型日本のドッキングで日本列島国家を築く、その第一歩が平泉だった。また、日本を代表する最高水準の文化を築いた。中央では考えられない地域で、底辺から積み上げた成果であり、その努力はもっと評価されていい。

 −世界遺産登録の推進をどう受け止めるか

 マルコ・ポーロの「東方見聞録」に登場するジパング黄金文化は、平泉をモデルにしている。その意味で、平泉は新しい世界をつくる羅針盤の役割を果たした。世界から感謝状を受けるに値し、感謝状は世界遺産登録という形になるのがふさわしい。

 −世界遺産登録のためには何が大切か

 平泉は、新しい日本をつくる引き金役で、ユートピアの提供者だ。それにふさわしい知識を岩手の人々、平泉の人々が共有しないと、世界にアピールできない。平泉文化は福島県いわき市の白水阿弥陀堂など東北各地に広がっている。さらに研究を進め、東北全域で連携を強めることも重要だ。

(聞き手は一関支社 達下雅一)

文・学芸部 中村紀顕  写真・一関支社 高橋照雄




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