〈29〉源 義経C 2006年8月28日


衣川遺跡群

奥州市・衣川遺跡群のうち東側に位置する六日市場遺跡。保護のため遺構を青いシートで覆っている。この近くに衣河館があった可能性も捨てきれない。左手後方は中尊寺の建つ関山

 衣河館で最後の一戦

 源氏の世の到来をみながら、兄頼朝(よりとも)に追われた失意の源義経(よしつね)一行が、いつごろ平泉入りしたのか、正確にはわかっていない。

 ただ、鎌倉幕府の史書吾妻鏡(あづまかがみ)の文治3(1187)年2月10日条「前伊予(いよの)守(かみ)義顕(よしあき)(後述するが義経から改名された)らが山伏姿で陸奥(むつの)守(かみ)秀衡(ひでひら)入道を頼り奥州に赴く」という記述から、そのころであろうとされている。

 平泉入りより前の、義経の功を述べたい。

 頼朝は、着々武士政権の基盤を整え始めた。それには、平家討伐が欠かせなかった。義経の奮戦が、幕府草創の一翼を担ったのは確かだ。

武者の木像
義経堂の内部には、堂創建時からまつられたという源義経の木造がある。右手に采配(さいはい)、左手は腰に置く。りりしい武者姿は義経にぴったりに思える

 視点を変えても、義経の存在あってこそ武士政権草創といえる事情がある。鎌倉幕府の事実上の成立年代のことだ。

 1192年というのが一般的。だが、史学界では頼朝が@1180年、鎌倉に居所を構えたA83年、宣旨(せんじ)を受け東国の国衙(こくが)在庁支配権を認められたB84年、幕府の行政・司法機関としての公文所(くもんじょ)・問注所を設けたC85年、全国に守護・地頭を置いたD90年、右近衛(うこんえの)大将への任命E92年、征夷(せいい)大将軍に任命−と、6つの説がある。

 有力なのはC守護・地頭の配置をもって幕府成立とする−だ。

 地頭は、義経と叔父の源行家(ゆきいえ)を捕らえることを名目として置かれた。

 行家は、間をおかず討たれた。

 とすれば義経がいなければ地頭配置の大義が成り立たない。

 義経は、鎌倉幕府成立に欠くことはできず、日本史の画期を刻んだ人物といえよう。

 改名の逸話

 義経探索の書状は矢継ぎ早に出された。

 鎌倉方にとって困ったことがわかった。謀反人義経と同じ読みの「三位(さんみの)中将良経(よしつね)」という高位の人物がいた。恐れ多い、と義経は義行(よしゆき)と名を変えられた。

 探索は、なお進まない。義行は「よくゆく」、よく隠れるの意味だと指摘があった。早く居場所があきらかになるよう「義顕」と改められた。吾妻鏡に残る、どこか由ない挿話だ。

 1187年10月29日、鎌倉に対抗しうる日本唯一の猛者・藤原3代秀衡は、平泉館(ひらいずみのたち)で卒去した。

 病床に泰衡(やすひら)以下の息子を呼び寄せ「義経を大将軍として国務をとらせよ」との遺言をした。

高館の伝承

長く源義経最後の地と伝えられてきた高館。仙台藩主伊達綱村はこの地に義経堂を建て、義経をしのんだ。ここから見はるかす北上川、束稲山は、今でも平泉で屈指の景観だ

 安倍−藤原氏の血脈を捨ててなお、軍事的英雄に奥羽の未来を託した。重い決断だった。

 鎌倉へ対抗の決意は、秀衡の遺志だけではなかった。鎌倉方の公卿九条兼実(かねざね)の日記「玉葉(ぎょくよう)」には、秀衡の遺言に従い義経、秀衡嫡男で藤原4代を継ぐ泰衡、秀衡妾腹(しょうふく)ながら年長の国衡(くにひら)の3人が鎌倉攻めを謀議したと記述する。

 頼朝は、相当の恐れを抱いたろう。義経討伐、平泉攻撃の命令書を朝廷に再三働きかけ、一部は院宣(いんぜん)として下された。

 平泉の泰衡は揺れた。朝敵となるのを恐れたか。父の遺言、大将軍義経指揮での対鎌倉戦、鎌倉の申し出に従うことなど、あらゆる可能性を巡らし決心した。

 秀衡が没して1年半後、義経の死の報が鎌倉に届いた。泰衡の決断の結果だった。

 「最期」の地

 文治5(1189)年閏(うるう)4月30日吾妻鏡「今日陸奥国において、泰衡、源豫州(よしゅう)(「義顕」と小さい字で2行に記す割り注あり)を襲う−」

 以下に襲撃時、義経は民部少輔(みんぶのしょうゆう)藤原基成(もとなり)(前陸奥守で、秀衡正妻の父)の「衣河館(ころもがわのたち)」にいたこと、泰衡は数百騎で急襲、義経は、防戦の家来が相次いで討たれるなか持仏堂に入って妻子を手にかけ、その後自殺した、と伝えられた。

 数え31歳。源氏再興の夢を追い、親兄弟の愛にこがれた一生だった。

 史料にはっきり「衣河館」とありながら、軍記物語「義経記(ぎけいき)」の記述などが伝承され、義経最期の地は高館(たかだち)といわれてきた。

 高館は、北上川に面する。束稲山を一望にする丘には1683年、仙台藩主伊達綱村(つなむら)が義経堂(ぎけいどう)を建立。6年後、「おくのほそ道」の旅で平泉入りした松尾芭蕉(ばしょう)が「まづ高館に登れば−」と真っ先に足を運んだ。

 2005年5月24日付本紙朝刊は、平泉町と接する奥州市衣川区、衣川北岸の接待館遺跡をはじめとした4遺跡から、12世紀平泉藤原氏の時代の遺構が広範囲に見つかったことを報じた。同僚記者のスクープだった。

 「衣河館」の可能性さえ秘めた遺跡群といえる。衣河館の存在がわかれば、伝承の高館とは別に、吾妻鏡に記された義経最期の地の特定も夢ではない。

 没後817年。義経が目にした束稲山と北上川、自然を渡る風の肌触り。藤原氏累代の地は、歴史の記憶を抱き今にある。

 語る みちのくの遺産 弘前大教授 斉藤 利男さん

 「北の都」分析深まる

 −衣川遺跡群の発見が意味するものは。

 都市平泉の研究は従来、中尊寺、毛越寺、柳之御所遺跡など狭義の平泉地区が中心だったが、昨年の衣川遺跡群の発見は都市平泉の構造と機能について新たな分析の道を開いた。

 衣川地区は藤原氏以前に「奥六郡の主」だった安倍氏や清原氏が本拠を置いた。吾妻鏡によれば平泉時代にも3代秀衡の舅(しゅうと)の藤原基成が宿館「衣河館」を構え、その一画に住んでいた源義経が最期を遂げた場所でもあった。

 大量のかわらけを出土した接待館遺跡など、園池や儀礼空間を持つ遺跡群のあり方は衣川地区が平泉の「もう一つの中心地区」だった可能性を示している。

 −そこから浮かび上がる都市平泉の姿とは。

 清衡が関山丘陵に創建した中尊寺伽藍(がらん)は南から全く見えず、北の衣川地区からしか見えなかった。中尊寺は本来、奥六郡以北を意識して創建された寺院であり、衣川地区は初期平泉の都市機能を担った中心地区だった。

 平泉は初代清衡の後期から南奥羽の勢力との提携が進み、毛越寺など南へ発展した。平泉は衣川をはさんだ北と南の2つの市街地を持つ複合都市だった可能性が高い。

 −都市平泉の歴史的意義は。

 当時の交易品としてオオワシなどの羽やアザラシ(水豹(すいひょう))の皮が中央に送られていたように、藤原氏は奥羽だけではなく現在の北海道も交易支配していた。

 平泉藤原氏の権力基盤は奥羽と蝦夷(えぞ)の両者に対する支配であり、それゆえに古代以来奥羽と深いかかわりを持つ坂東(関東)からも独立し、中央からも一定の自立を獲得できた。都市平泉は京都、鎌倉と並び天下の3分の1を領した藤原氏政権にふさわしい「北の都」というべき存在。鎌倉による統一奥羽世界の解体で平泉はその役割を終えた。

【写真=「平泉は、奥六郡の主として北奥・北海道を支配した平泉藤原氏政権にふさわしい北の都だった」と語る斉藤利男さん=弘前市・弘前大】

(聞き手は一関支社 小笠原裕)

文・学芸部 中村紀顕  写真・一関支社 高橋照雄



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