〈28〉源 義経B 2006年7月26日


北へ逃避行

源義経一行が、平泉へ逃れる途中立ち寄ったとされる栗原寺(宮城県栗原市)。義経記は「くりはらでら」と読ませているが、今は「りつげんじ」という。本堂(右奥)の手前に、中島と池のある浄土式庭園が整備された

 兄のために戦い続け

 武将・源義経(よしつね)の戦いぶりは目覚ましかった。戦術家としての才能は後の世に、彼を英雄とする一つの要素になった。

 源頼朝(よりとも)は、平家戦で自身が陣頭に立たなかった。指揮権は弟義経に託した。なぜか。

 平泉藤原氏三代秀衡(ひでひら)の存在があった。

 玉葉(ぎょくよう)(九条兼実(かねざね)日記)は、1183年10月、上洛(じょうらく)予定だった頼朝が秀衡、佐竹隆義(たかよし)らが鎌倉(神奈川県)を攻める恐れありとしてとりやめた、と記述する。

 実際に攻める気配があったかどうかは別に、頼朝にとって後背の地、奥州の王者秀衡の存在は、相当な重みをもってのしかかっていた。

 同年閏(うるう)10月17日、義経は、頼朝に源(木曽)義仲(よしなか)追討大将軍を命じられ、数万の兵を率いた。

 同じ日、秀衡が義仲と謀って頼朝を攻めるという風説が流れた。

 頼朝と秀衡。虚々実々の駆け引きが続いた。風説を青年期、秀衡に庇護(ひご)された義経はどう受け止めたのか、わからない。

 義経はただ、頼朝のために戦って戦って、戦い続けた。

 1184年1月、瀬田(滋賀県大津市)・宇治(京都府)の合戦で木曽義仲軍を撃破して以来、翌年3月壇ノ浦(山口県下関市)で平家を滅ぼすまでの間、一の谷(神戸市)、続く屋島(高松市)と敵なし、常勝の武将であった。

 中国春秋時代(約2500年前)の「孫子(そんし)」に広く知られた記述がある。「兵(戦争)は詭道(きどう)なり」「兵は拙速なるを聞くも未(いま)だ巧久なるを賭(み)ざるなり」。「魏志(ぎし)」もいう。「兵は神速を貴ぶ」−。兵法書にのっとったような戦術は、義経の天賦の才だった。

 歴史的戦闘

 端的なのが、義仲撃滅戦に次ぐ一の谷合戦だ。

 搦手(からめて)(別働部隊)の総大将義経は、生田の森に布陣した平家の後陣・一の谷を攻撃する。その際、軍監(軍の目付役)に大半の兵力を預け、自身は精兵70騎を率い神速で迫った。

 前が海、背後は険しい絶壁が迫る一の谷は、天然の要害。

 84年2月7日、義経は平家の背後の絶壁上に立っていた。眼下を見据え配下に突撃を命じた。

拒まれた弟

神奈川県鎌倉市の江ノ島電鉄鎌倉高校前駅付近から西を望む。電車最後尾の奥の山に、源義経が腰越状をしたためた満福寺がある。指呼の間に迫りながら、義経は鎌倉入りを拒まれた。左奥にかすんで見えるのは江ノ島

 <奇襲>である。

 平家は降るような襲撃に抗すべくもなく海へと逃れ、屋島にこもった。

 「鵯越(ひよどりごえ)の逆落とし」として絵巻・軍記に記された歴史的戦闘だった。

 翌85年2月17日、義経は軍監梶原景時(かげとき)らの制止を振り切って、暴風雨を突き四国に渡る。翌々日には屋島の平家本陣を急襲、敵を海へ追い落とした。

 決戦壇ノ浦は、3月24日。平家は得意の海上戦で、潮の流れに乗り優勢だった。しかし義経は、当時の合戦作法にはない非戦闘員殺りくを下命した。平家軍船の水手(かこ)、梶(かじ)取りを狙い打ちにしたのだ。

 形勢は逆転、平家の奉じていた幼い安徳天皇が平清盛(81年閏2月死去)の妻二位尼(にいのあま)とともに入水(じゅすい)したことで、平家滅亡は決まった。

 父義朝(よしとも)の敵を討った義経の栄光は、この時点から破滅に向かう。

 戦略的に避けるべきだった安徳天皇の死と、三種の神器・宝剣の水没。

 しかも、部下の勝手な任官を禁じた頼朝の意向を無視し、義経は朝廷から左衛門(さえもんの)少尉(しょうじょう)・検非(けび)違使(いし)に任じられていた。

 非戦闘員を狙い打ちにした指揮も、他の武将から歓迎されなかった。

 凱旋(がいせん)の義経主従は、軍功を賞されるどころか、鎌倉入りを禁じられ手前の腰越(こしごえ)にとどめられた。義経は今も知られる「腰越状」(元歴2=1185=年5月付、大江広元(ひろもと)あて)で、ただ兄頼朝のために戦ってきた−と訴えた。聞き入れられなかった。京へ引き返すよりなかった。

 追討の院宣

 その後の義経の転変は目まぐるしい。頼朝との対決を決意し、10月に頼朝追討の宣旨(せんじ)(朝廷の命令書)を得て兵を募る。

 応ずる者なく都落ち。船で西国を目指す途中の11月、難破した。愛妾(あいしょう)静(しずか)とも別れ、流浪の身となった。

 世は逆風に転じた。後白河(ごしらかわ)法皇も同月、一転して義経追討の院宣(いんぜん)(法皇ら院の命令書)を下した。相反する宣旨と院宣。頼朝は二またをかけた後白河を「日本国第一の大(おお)天狗(てんぐ)」と呼び、憤りをあらわにした。

 後白河は、頼朝の怒りをなだめるかのように、義経探索の任を併せ持つ「守護・地頭」の全国設置を認めた。

 義経の家来は次第に陣没していった。四天王の一人・佐藤忠信(ただのぶ)は、奈良・吉野山で主従が包囲されたとき、しんがりで敵を引き受け奮戦、主を逃がす。京に潜伏した忠信は1186年9月、敵に囲まれ自刃した。

 義経の身代わりとなり、屋島で討たれた兄継信(つぐのぶ)に並ぶ忠臣だった。

 兄弟の墓は、福島市飯坂の医王寺(いおうじ)にある。

 苦難の逃避行の末、義経主従は秀衡勢力下の奥州に入った。「義経記(ぎけいき)」によれば栗原寺(くりはらでら)(宮城県栗原市)を経て、懐かしい平泉にたどり着く。87年2月のころと伝わる。

 語る みちのくの遺産 日本文化研究者 ドナルド・キーンさん

 たぐいまれな美しさ

 −平泉とのかかわりを。

 平泉は松尾芭蕉の「奥の細道」の研究を通して知った。足跡をたどり初めて訪れたのは1955年。私は日本に来てから広隆寺や中宮寺などのすばらしい仏像に夢中になり「これこそ絶対的な美だ」と感じた。だが、震えるほど美に打たれ、われを忘れてこの世ではない世界に入ったと感じたのは中尊寺金色堂の内陣を見た時だけだった。

 「夏草や兵(つわもの)どもが夢の跡」は最も感激する句だが、平泉のたぐいまれな美しさ、偉大さについて、芭蕉ほど真実をつかんでいた人はいない。

 −かつてシンポジウムで「平泉は一度も死ななかった」と述べた意味は。

 文化の中心地から遠く隔たった土地の文化、それが平泉文化の一つの特徴だ。優れた芸術文化は文化の中心地にばかり生まれるとは限らない。特に仏教と関係の深い遺跡は中国の敦煌、カンボジアのアンコール・ワット、ジャワのボルブドゥールなど、だいたい現在では非常に不便な場所にある。多くの場合、人々に忘れ去られ、いったん死んだことがあった。それに比べて平泉は一度も日本人から忘れられたことはなかった。これが一番の特徴だ。

 −平泉の世界遺産登録運動にエールを。

 最初に訪れた時は金色堂しか印象に残っていなかったが、何度か訪れるうち、一つのすばらしい建物があるだけではなく、樹木や景観など全体で構成される特別な世界を意識することができた。私の知っている他の世界遺産に比べても平泉は超一流の存在。この土地が浄土という印象が非常に強い。日本人として誇るべきもの、それは世界遺産であるべきだ。  

【写真=「金色堂をはじめとする平泉の文化遺産は世界に比類なき存在」と語るドナルド・キーンさん=中尊寺境内】

(聞き手は一関支社 小笠原裕)

文・学芸部 中村紀顕  写真・一関支社 高橋照雄



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