〈27〉源 義経A 2006年6月28日


奥州の勇士

福島市飯坂の医王寺にある佐藤継信。忠信兄弟の墓(右)。2人の源義経に対する忠誠は、長く語り伝えられてきた。正面奥にあるのは兄弟の父母元治(基治)・乙和の墓

 忠臣従え兄のもとに

 平泉で、22歳までの6年余を過ごした源義経(よしつね)は、手厚く遇されていた。

 しかし…孤独だった。

 父義朝(よしとも)は、義経幼時に平家と戦い敗死。母とも離され肉親の愛情を知らなかった。愛を渇望した。孤独の貴公子だった。

 兄頼朝(よりとも)挙兵の報が届いた。父の無念を晴らしたい、兄に会いたい−。義経は切望した。

愛憎ここに

源頼朝が本拠を構えた鎌倉市・鶴岡八幡宮。義経の兄頼朝に対する愛憎の思いを、この地は知っている

 平泉藤原氏三代秀衡(ひでひら)は、兄の挙兵を聞き参陣しようとした義経を引き止める。しかし、彼の決心は揺るがない。ひそかに平泉館を出発した。

 秀衡は最高のはなむけを贈る。奥州屈指のつわもの佐藤継信(つぐのぶ)(1158−85年)・忠信(ただのぶ)(1161−86年)兄弟を供につけたのだ。

 そのくだりを記した鎌倉幕府の史書吾妻鏡(あづまかがみ)1180年10月21日条も継信・忠信兄弟を「勇士」と評価している。2人は義経四天王の重きをなした。

 継信・忠信は、奥州信夫(しのぶ)郡(福島市)佐藤庄司元治(もとはる)(基治とも記された)の子。先祖の大庄司季春(すえはる)は、藤原氏二代基衡(もとひら)の忠臣だった。基衡の命で陸奥守(むつのかみ)の検地を武力で妨害、罪を一身に引き受け死んだことは20回「二代基衡(上)」で紹介した。

 先祖に恥じぬ勇者の一族で、継信は85年2月19日、屋島(高松市)の合戦の折義経をかばって、平家の矢を受け陣没する。後に弟も父も、みな義経と平泉藤原氏への忠節を貫き通し果てた。奥州武士の意地と面目を天下に示した。

 福島市飯坂・医王寺(いおうじ)に、今も墓の残る一族の活躍は回を改める。

 挙兵の名分

 頼朝の挙兵は、一枚の書状によって決断された。

 後白河の皇子(おうじ)・以仁王(もちひとおう)(1151−80年)の令旨(りょうじ)である。

 「東海・東山・北陸三道諸国の源氏並びに群兵等の所に下す−『早く清盛(きよもり)法師並びに従類反逆の輩(やから)を追討すべきこと』」

 皇太子の命令を伝える令旨の衝撃は、すさまじかった。日本史を変えた。

 以仁王は、母が高貴な家柄ではなかった。皇位継承は望めない。しかし武門の平家を倒し皇族の復権と自らの即位も賭けた。父後(ご)白河(しらかわ)も皇族中心の貴族社会繁栄に執念を燃やした。

 結果的にこの令旨は、貴族の世が武家の世へ移りゆくきっかけを作ってしまった。歴史の大いなる皮肉といえる。

 80年4月9日に発せられた令旨が、北条館の頼朝に届いたのは同月27日のこと。

 吾妻鏡は9日から書き起こし、27日へと続き令旨の全文を記した。大義名分をここに求めたのである。

 その1カ月後の5月26日、以仁王は平家に攻められ敗死した。腹心で、源氏一族の中でただ一人平家一門に並び立っていた源頼(より)政(まさ)(1104−80年)も京都宇治の決戦で没した。

 宇治・平等院鳳凰堂(ほうおうどう)の裏手には「埋もれ木の花咲くこともなかりしに身のなる果てぞ悲しかりける」と辞世の歌を残し、自刃した頼政の墓がある。

 兄弟の確執

 令旨の主人公は、既にこの世にいなかった。が、頼朝は令旨を奉じ8月17日、挙兵した。

 旗揚げ戦に勝利。続く石橋山(神奈川県小田原市)で、一敗地にまみれたかにみえながら、頼朝には運があった。

 10月20日、源平は富士川(静岡県)で対峙(たいじ)した。水鳥の羽音に驚いた平家軍は算を乱し逃走し、頼朝は労せずして勝つ。

 翌日、黄瀬川宿(同沼津市)に到着した義経と頼朝は、感激の対面をする。

 吾妻鏡は義経着陣を、後三年合戦(1083−87年)の際苦戦した源義家(よしいえ)のもとへ、弟義光(よしみつ)が官職を投げ捨て参陣。清原氏を撃滅した佳例になぞらえた。

 ただ、その佳例には続きがあった。兄の没後、義光は河内源氏の棟梁(とうりょう)の座を狙う。内紛が引き金となって源氏は徐々に勢力を失い、平家全盛の世を招いた。

 先例を熟知していた頼朝が、義家・義光兄弟の行く末を知らなかったはずはない。弟と対面した頼朝の、心の底はどうだったのか。

 義経は源氏の棟梁の弟という自負をもった。頼朝は、麾下(きか)の武将の一人とみた。義経に合戦の出番はなかなか巡ってこなかった。それどころか馬引きの事件が起きた。

 1181(養和元)年7月20日、鶴岡八幡宮若宮宝殿(神奈川県鎌倉市)の上棟式で、義経は、頼朝から他の御家人とともに、宮大工に下す馬の引き手を命じられた。

 義経は心外だった。なんとか断ろうとした。

 頼朝は怒り、再度馬を引くよう命じた。怒りの激しさを恐れ、ついに義経は馬を引いた。弟さえ別格にはしない。頼朝の意思がはっきりした瞬間だった。

 約2年半後義経に、ついに初陣の機会が訪れた。念願の平家ではなく、源氏一門の源(木曽)義仲(よしなか)との対決だった。平家をけ散らし入京した戦意盛んな、手ごわい軍団である。

 歴史のひのき舞台が、義経主従を待っていた。

 語る みちのくの遺産 作家 中津 文彦さん

 清衡の魂 今こそ必要

 −デビュー作「黄金流砂」(江戸川乱歩賞受賞)執筆の動機は。

 まず義経の北行伝説ありき、だった。幼いころ大病を患い、父親が添い寝しながら語ってくれたのが源平合戦の物語。毎晩どきどきしながら耳を傾けた。壇ノ浦の戦いに胸を躍らせ、平泉を逃れて北へ向かうストーリーは子ども心にも「良かった」と思わせられた。

 ところが中学校に進むと「義経は平泉で自害して果てた」となった。「うそだ」と心の中で叫び、歴史の不可解さを感じた。人の言うことをうのみにしないという経験は新聞記者時代に生きたが…。

 −北行伝説の生まれた背景をどう考えるか。

 義経は平泉に下る際、一つの明確な目的を持っていた。それは比叡山の僧兵と平泉勢で鎌倉勢を挟撃する戦略だったとみる。その一環として、密命を帯びた義経の配下が北へ向かった。

 歴史を見る上で、正史に対するものを稗史(はいし)という。正史が国家や国家権力に近い人々によって記録された史料に基づいて構成されるのに対し、稗史は民衆の間でひそひそと語られた真実などの伝承や記録によって組み立てられる。双方を照らし合わせて初めて「史実」が明らかになる。鎌倉幕府の正史「吾妻鏡」と北行伝説は矛盾しない。史実をどう読み解くか、だろう。

 −平泉への思いを。

 戦後復員した父親に連れられて松尾芭蕉の句碑の拓本を採りに行ったことがある。「夏草や兵(つわもの)どもが夢の跡」の句碑の傍らで父が泣いていた。清衡は戦ではなく、仏法による平和戦略で蝦夷の地を取り戻そうとした。最近の国際情勢を見るにつけ、その精神が今ほど求められている時代はないのではないか。

【写真=「清衡の平和思想を今こそ学んでもらいたい」と語る中津文彦さん=盛岡市の自宅】

(聞き手は一関支社 小笠原裕)

文・学芸部 中村紀顕  写真・一関支社 高橋照雄



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