〈26〉源 義経@ 2006年5月28日

悲運の若武者を擁護
幼少に生活

京都・鞍馬寺の本殿金堂。後の源義経が、幼年期から少年期を過ごした鞍馬山は、霊山の雰囲気が今も漂う

  「平家を倒し、亡き父の無念を晴らす」。悲願を胸にした若武者が、平泉入りした。

 宿願の重さに、蛇行しながら日を照り返す北上川や、吉野にも似たと評される束稲山が目に入っていたか、わからない。

東下り行列
毎年5月3日に平泉で行われる春の藤原祭り源義経公東下り行列。兄頼朝に追われ、平泉へ到着した際の情景を再現した。失意の義経にとって当地は最後の寄る辺だったろう
 平泉を目指す前、若武者は自ら元服し「源九郎義経(みなもとのくろうよしつね)」と名乗る。義経と平泉藤原氏の運命的な交差は1174(承安4)年ごろのこととされる。

 平泉入りのとき、義経は数え(以下同)16歳、4年前に鎮守府将軍の要職に任じられた藤原氏の棟梁(とうりょう)・3代秀衡(ひでひら)は、53歳か。義経の亡父・義朝(よしとも)が生きていれば、ほぼ同じ年齢だった。

 戦の天才、悲運の武将。「判官(ほうがん)贔屓(びいき)」という言葉さえ生んだ日本史上屈指の英雄ながら、義経の事績を記した史料は少なく、実像はおぼろにかすむ。

 鎌倉幕府の史書吾妻鏡(あづまかがみ)の初見は、平家を撃破した兄頼朝(よりとも)のもとに遠く平泉からかけつけ、黄瀬川(きせがわ)宿(静岡)で対面の1180年10月21日条だ。義経22歳。

 以降、頼朝と対立し摂津国(大阪府)大物浜(だいもつのはま)から西国に向かう途中難破し、漂着した(吾妻鏡85年11月6日条)記述までの5年間しか義経の人事を知ることはできない。
魂をまつる
京都・鞍馬山の頂を僧正が谷へと下りていくと義経(よしつね)堂がある。平泉で藤原泰衡に攻められ死去した義経の魂が、山に帰りまつられたという

 89年閏(うるう)4月30日、平泉衣河館(ころもがわのたち)で藤原氏4代泰衡(やすひら)に攻められ自害した31年の生涯で、わずか5年。その前後の不確実な時期が、京都・鞍馬寺を除けば平泉とかかわっていたことになる。

 義経の、平泉への東下りの経緯もなぞだ。

 平家追討に軍功を上げながら頼朝の不興を買い、鎌倉凱旋(がいせん)を禁じられた義経が、弁明のためしたためた「腰越(こしごえ)状」(85年)にその事情をうかがわせる記述がわずかに残る。

 「京都で過ごすのが困難になってからは、諸国をさすらい、身をあちこちに隠し、地方や遠国を住みかとし百姓らに使役されながら暮らしてきた」−。大意は以上のようになる。

 東下りを先導した商人と伝えられる金売り吉次(きちじ)のこともなく、英雄には、ほど遠い少年期だ。

 現在の義経像は「平治物語」(鎌倉時代)や「義経記(ぎけいき)」(室町時代)といった軍記物語や、能・歌舞伎が膨らませてきた貴公子像に負うところが大きい。

 父義朝は、義経が生まれた翌1160年、平治の乱で平清盛(きよもり)に敗北、死ぬ。

 平治物語は、敗軍の将の妻・常盤(ときわ)が上の子2人の手を引き、2歳の牛若(うしわか)(義経)を懐に抱き、落ちて行くさまを哀切に伝える。

 「比(ころ)は2月(きさらぎ)10日なり。余寒なをはげしくして、雪はひまなく降(ふり)にけり。−『さむや、つめたや、母御前。』とてなきかなしめば、衣(きぬ)をば少(おさなき)人々にうちきせて嵐(あらし)のどけきかたにたて、我身(わがみ)ははげしきかたにたちてはぐゝみけるぞあはれなる」

 義経は父の顔を知らなかった。母からも引き離されて鞍馬寺に預けられる。義経記、尊卑(そんぴ)分脈(ぶんみゃく)など史料によってまちまちだが、そのとき年は7歳から11歳の間のいずれかと伝わる。
 遮那王(しゃなおう)と呼ばれ僧への道を歩むはずだった。
 それは、源氏の宿敵清盛が、常盤を愛妾にすると同時に、彼女の母と3人の男児を助命する条件であった。
 仏の道にすがれば会稽(かいけい)の恥をすすぐことはできない。武術で立つと決めた義経は、鞍馬山中の大木に「清盛」ら敵の名を付けた。
 山中を駆け上り、下った。平家一門に見立てた大木を剣で打ち据え続けた。

 「恨に報いる」。義経の存念は、平泉初代清衡の平和思想とは遠く離れたものだった。

 義経を迎え入れたとき、東北に平和な仏国土を建設しようとする理想と、平家全盛の世で源氏の貴種を庇護(ひご)し戦さえ覚悟するのかという現実の前に、平泉は揺れたのではないか。

 秀衡の責任は重かった。下した決断は、平泉の運命を左右した。

 語る みちのくの遺産 鞍馬寺貫首 信楽 香仁(しがらきこうにん)さん

 −義経の足跡はどのように伝えられているか。

 義経さんは6、7歳ごろ寺に預けられ、10年近く鞍馬の豊かな自然の中で成長し、人格を形成した。寺は数度の火災に遭い、多くの品々が失われたが、牛若丸が天狗(てんぐ)を相手に剣術のけいこをしたと伝えられる僧正ガ谷、修行の合間にのどを潤した息次ぎの水、奥州に向かう前に鞍馬山との別れを惜しんで背比べしたとされる背比べ石などが来山者に親しまれている。

 −みちのくとの縁は。

 昨年1月から2月にかけて、えさし郷土文化館で開かれた開館5周年特別企画「鞍馬寺と義経」展で毘沙門天(びしゃもんてん)立像を特別に出開帳できたのは画期的だった。800年の時を経て江刺の方々と心を通わせることができたのは人間の計らいを超えた何かを感じる。

 鞍馬寺は平安期の毘沙門天立像(国宝)を本尊とし、北方から都を守る役目を担ってきた。古くは征夷大将軍坂上田村麻呂が剣を奉納、戦勝祈願した。腰に手を当てた毘沙門天は鞍馬様(よう)といわれ、東北地方に多く残されている。

 −平泉の文化遺産をどう感じたか。

 中尊寺建立供養願文には敵味方の区別なく、鳥もけものも一切平等に浄土に導かれるよう願いが込められている。鞍馬山でも草木も虫も鳥も、天からいただいた宝物として大切にしてもらうよう、来山者に呼びかけている。すべての命を尊ぶ精神は共通している。

 人の心温かい平泉の地で義経はその生涯を閉じたが、御魂は懐かしい鞍馬に戻り、遮那王尊としてあがめられている。毎年9月15日には義経祭を催し、思いをはせている。
(聞き手は一関支社 小笠原裕)

毎年5月3日に平泉で行われる春の藤原祭り源義経公東下り行列。兄頼朝に追われ、平泉へ到着した際の情景を再現した。失意の義経にとって当地は最後の寄る辺だったろう

【写真=「義経公を結びの糸としたつながりを大切にしたい」と語る信樂香仁さん=京都市・鞍馬寺】

(聞き手は一関支社 小笠原裕)

文・学芸部 中村紀顕  写真・一関支社 高橋照雄



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