〈25〉藤原三代と院政三代 2006年4月26日


重なる景観

京都と同じような景観が、平泉に出現したことを端的に示したのは、宇治の平等院を模した無量光院だったろう。無量光院跡背後の金鶏山頂に沈む夕日は往時と変わらない=4月18日撮影

 律令制下、密接に影響

 平泉藤原氏創業の清衡(きよひら)、中興の基衡(もとひら)、頂点に立った秀衡(ひでひら)。3代の評価に近年、朝廷の同時代の院政3代と対比してとらえる説が注目されるようになった。

 3代それぞれが活躍した年代を重ねて論じる研究者も増えてきた。なかで、東京大大学院の五味(ごみ)文彦(ふみひこ)教授(日本中世史)の説は一歩踏み込み興味深い。

 2004年1月、岩手県立埋蔵文化財センターなどが主催し、盛岡市で開かれた埋蔵文化財公開講座で五味教授が行った講演や氏の著書「中世社会と現代」(山川出版社日本史ブックレット)の内容を中心に藤原氏3代と院政3代をなぞる。

 王権と同調

 3代の院政とは白河(しらかわ)(院政期間1086−1129年)・鳥羽(とば)(同29−56年)・後白河(ごしらかわ)(同56−92年)。平泉藤原氏の時代である12世紀のほぼ100年間と年代的にも一致する。

 天皇から上皇となって初の院政を敷き、後に出家し法皇になった白河は、京都西方の白河に八角九重塔を備えた法勝(ほっしょう)寺(じ)を建立した。

 九重塔は今、京都市動物園内に石標を残すだけだが、往時の高さ約80メートル。京に東から出入りする人々の目印、つまりランドマークになった。

浄土を描く

京都・宇治の平等院鳳凰堂。平泉の無量光院跡の夕景に、このお堂を重ね合わせて想像すると、平泉藤原氏が目指した浄土が浮かんでくる

 同時代、清衡の中尊寺は、白河の法勝寺による王権の表現に対応して建てられた。奥州の中央に位置する関山山上(標高約100メートル、平泉の平地から見上げた高さは約70メートル)に立ち、二階大堂(高さ約15メートル)、皆金色の金色堂など王権を象徴する伽藍(がらん)。法勝寺同様、平泉を訪れる人々が85メートルの高さを仰ぎ見るランドマークであったろう。

 白河院の後を継いだ鳥羽院は、コレクションで王権を飾ったという。顕著な例として、鳥羽の離宮を整備し建立した勝光(しょうこう)明院(みょういん)に付属して、宝蔵を設けたことを指摘する。

 対応する基衡の場合、毛越寺建立の際の挿話を述べる。寺の額は九条関白忠通(ただみち)筆を掲げた。本尊をつくる仏師雲慶(うんけい)に金百両、鷲(わしの)羽(はね)百尻(しり)といった珍宝類を送ったことは、藤原氏が北方との交易などを通じて多くの宝物をコレクションしていたことの証しであるとみる。

 院政3代目の後白河院は、今様(いまよう)集「梁塵(りょうじん)秘抄(ひしょう)」を編集したように、自らの手で王権を護持し演出。いわばパフォーマンスによる王権の装飾をしていたという。

 平泉3代秀衡は、宇治の平等院を模して無量光院を造営した。院内四壁の扉に、観経の大意を図絵した後、秀衡自らが「狩猟之体」を図絵しているところにパフォーマンスの王権の片鱗(へんりん)が認められよう−とする。

 以上、院政と平泉藤原氏3代の相似を五味教授の論に沿ってみてきた。朝廷の存在する京都と、かつての奥六郡に接した奥州平泉が、隔たりながらも密接な影響を相互に及ぼしていたことが浮かび上がる。

 奥州が実質上独立できた蝦夷(えみし)、安倍・清原氏の奈良・平安時代を経て、日本の王権・政権の動向と同調せざるを得ない新たな時代の息吹がうかがわれる。

 武士の世へ

 秀衡が鎮守府将軍、次いで陸奥(むつの)守(かみ)に任じられたことは、源氏に対抗する勢力としての期待を込められたものであったことを前回紹介した。

 それは、律令(りつりょう)制の官位制度に取り込められたことでもあった。

 秀衡の顕官就任は、栄光と同時に十字架を背負った。

 律令制官位に対する源頼朝(よりとも)の処し方をみると、秀衡と明らかに違いがある。

 源氏の棟梁(とうりょう)・義朝(よしとも)の息子として位階は幼少から得ていた。奥州合戦で平泉藤原氏を滅ぼし1189(文治5)年11月、頼朝は権大納言と右近衛(うこんえの)大将(だいしょう)に任じられた。ところが1カ月もしないうちに両官職を辞任した。

 今さら朝廷の官位でもない、との冷めた意思表示だったろう。

 ただし、後白河法皇が崩御した1192(建久3)年、全武士に号令することのできる征夷(せいい)大将軍に就く。

 この官職は別格で、望みながら後白河存命中は得られなかったものだ。

 以降、建武(けんむ)の新政のわずかな期間を除き江戸幕府まで、征夷大将軍は兵権と政権を掌握し、幕府の時代が続く。

 頼朝は貴族の世から武士の世へ、体制を変えようという強烈な意志を持ち、律令国家の名目的な官職を辞した。

 秀衡は北方の王者だった。ただし、律令の旧体制に軸足を置き続けた。その違いが両者の盛衰に大きな影響を与えたように思われる。

 政治感覚は、頼朝の方が一歩先んじていた。だとしても、平泉藤原氏の栄光が揺らぐものではない。

 東北が史上最も輝き、あこがれと畏怖(いふ)をもって眺められたのは、平泉藤原氏の一世紀に尽きる。

 世界遺産にふさわしい日本史上の100年。

 しかも、平泉の地下には、戦乱によって攪乱(かくらん)された京都や鎌倉には数少ない平安末の遺構が存在し続ける。

 語る みちのくの遺産 皇学館大教授 上横手 雅敬さん

 平和主義 日本の理想

 −院政期は平泉にどう影響したか。

 院政期の始まりは、時期的に後三年合戦の終わりに重なる。これは平泉にとって幸運だった。というのも朝廷はこの合戦を源義家の私戦として陸奥守を解任し、義家はむなしく帰洛した。平氏が白河、鳥羽両上皇の庇護(ひご)を受けて繁栄する一方、源氏は振るわず、関東に権力のエアポケットが生まれることで平泉は着々と基盤を整え、百年の平和を保てたといえる。

 −後白河院政はどのような意味を持つか。

 後白河が清盛、義仲、頼朝ら武士を操った老かいな人物という見方は正しくない。義仲と争って命を失いそうな目に遭ったのも、頼朝が義仲の支配地まで自分の支配下に含めようと後白河に働きかけたのがきっかけ。

 最大の愚策は1185(文治元)年、頼朝と義経が対立する中で、義経の要求に応じて頼朝追討を命じる宣旨を出したことだ。その結果、頼朝は後白河の責任を追及し、義経探索のために守護・地頭の設置などの要求をのませた。頼朝のすごさ、恐ろしさを感じる。

 しかし後白河は、これらの武士と対決・妥協しつつ長い戦乱に終止符を打ち、政局の一応の安定をもたらしたといえる。

 −世界遺産登録への期待は。

 平泉は「黄金の国ジパング」という風説の源となり、国際性を持っていた。また仏教の理念に基づく徹底した平和主義に貫かれた文化的な国づくりを目指したのは第2次世界大戦後の日本の国家建設の理想にも重なる。そうした意味合いからも平泉の文化遺産が世界遺産に認められることは、日本の平和主義を世界に訴える意義がある。

【写真=「平和主義に貫かれた平泉の文化遺産は今日的な意味がある」と語る上横手雅敬さん=京都市】

(聞き手は一関支社 小笠原裕)

文・学芸部 中村紀顕  写真・一関支社 高橋照雄



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