〈24〉三代秀衡 2006年3月31日


平泉を鎮護

平泉毛越寺の北東(鬼門)に位置する金鶏山(きんけいさん)=中央やや右。藤原秀衡が一晩で築かせた人工の山、あるいは平泉鎮護のため雌雄一対の黄金製の鶏を埋めた、との伝承が残る。北上川をはさんで東には束稲山を遠望できる

 独自の宗教都市形成立

 平泉を拠点に、藤原氏が奥羽の覇者となった後、頂点に立ったのは三代秀衡(ひでひら)だった。

 嘉応2(1170)年、秀衡は鎮守府将軍・従五位下に任じられた。

 源頼朝(よりとも)に近い公卿(くぎょう)九条兼実(かねざね)は、同時代の記録として現在も注目される日記「玉葉(ぎょくよう)」に、遺憾そうに「奥州夷狄(いてき)秀平(衡)鎮守府将軍に任ぜらる、乱世の基(もとい)なり」(同年5月27日条)と記した。

 公卿が嘆こうと、秀衡を時代は必要としていた。11年後の養和元年8月、軍事権だけでなく行政権を握る陸奥守(むつのかみ)・従五位上となった。同時期、越後の城(じょう)助職(すけもと)も越後守に任じられた。

 秀衡と城氏は、それまで度々頼朝を攻撃する−とうわさされた。例えば、源義経(よしつね)が平泉から長路を駆け、駿河(するが)国(静岡県)黄瀬川宿で初めて兄頼朝と感激の対面をしたのが1180年10月。ところがその約2カ月後、秀衡と城資永(すけなが)(助職の兄、母は清原武衡(たけひら)の娘という)が頼朝を討とうとしているとの風聞が立った(山塊記・玉葉)。

 頼朝と対立

 奥羽越の勢力を「国守」に任じたのは、朝廷を牛耳る平家が、頼朝をけん制する策でもあった。

 風聞はそこから出た。うそともいえなかった。
頼朝が勧請

神奈川県藤沢市の江島(えのしま)神社。辺津宮(へつみや)=右=の左手にある奉安殿には、源頼朝が藤原秀衡調伏のために勧請した八臂(はっぴ)弁財天の木像が今も安置されている
 頼朝は、平家の意図を察知していた。秀衡が陸奥守となった翌82年、すぐに反応。秀衡を調伏(ちょうぶく)するため鎌倉に近い江ノ島に弁財天を勧請(かんじょう)し鳥居を建立した。

 義経がこの後、源氏にとって目覚ましい戦果を上げることとは別に、頼朝と義経庇護(ひご)者・秀衡の対立は深いところで進行していった。

 前に「秀衡の偉さは、源義経を庇護したその一点だけでも際立つ」と記した。

 逆説的ながら、秀衡を主と仰ぐ藤原氏と義経の不幸は、義経庇護のその時点で決定的になった、ともいえる。

 藤原氏は棟梁(とうりょう)・秀衡が生きているうちは良かった。鎌倉との駆け引きで見劣りはなかった。

 吾妻鏡(あづまかがみ)文治2(1186)年4月24日条に「陸奥守秀衡入道から、貢馬(くめ)・貢金は鎌倉を通して(京へ)送るという請文(うけぶみ)が届いた」とある。

 その文が届いた訳を後段で「先に頼朝殿が書状で『御館(みたち)は奥六郡主、予は東海道の惣官(そうかん)なり。もっと魚水の思い(親密な交わり)を成すべきだ−』として貢馬・貢金を鎌倉が取り次ぐと申し出たことへの返書である」ことを述べている。

 奥羽の首領ではなく、安倍氏時代の「奥六郡主」と卑小化させたようにもみえるが、頼朝が秀衡を無視できなかった事情は、十分伝わってくる記述だ。

 秀衡の時代、平泉は大いに栄えた。

 政庁平泉館(ひらいずみのたち)(柳之御所遺跡)と中尊寺金色堂を結ぶ軸線。それに秀衡の住まい「加羅(から)(伽羅)御所」から無量光院を経て金鶏山へ延びる軸線の2つを中心として都市計画が行われた。
 平泉館と金色堂を結ぶ軸線は、発掘が証明した。

 1991年、平泉町教委の柳之御所遺跡堀跡外部地区調査で石敷きの道路跡が見つかった。北西−南東方向に長さ約60メートル、幅7−8メートルで側溝を含めると幅10メートルを超した。

 10年後の2001年、同町教委は中尊寺金色堂に近い瑠璃光院本堂南側を発掘した。そこから12世紀代の石敷き道路跡が検出された。幅は約2メートルと狭い。が、軸線は柳之御所遺跡で見つかっていた道路遺構と重なった。

 連なった一本の道であった。

 2つの軸線

 平地の柳之御所遺跡と、関山内という立地の違いなどが道路幅の差となった、と発掘を担当した八重樫忠郎町世界遺産推進室室長補佐、町文化財センターの及川司さんらはみる。

 入間田(いるまだ)宣夫(のぶお)東北大名誉教授は「都市平泉の遺産」(山川出版社日本史リブレット)のなかで、平泉館−金色堂の道路を秀衡の「先祖崇拝の軸線」、加羅御所−無量光院−金鶏山を「浄土信仰の軸線」とする。

 中尊寺仏教文化研究所菅野成寛(せいかん)さんが「宗教都市平泉」と提唱していることを紹介しながら「中国長安をモデルにした南北路=朱雀大路によって形づくられた平安京などと異なり、日本独自の仏教モデルによって形づくられた最初の都市」と記述した。

 誉れの平泉は平安末期、絶頂期から下り坂に踏み出そうとしていた。

 頼朝に追われ、流浪の義経をかくまった文治3(1187)年10月29日、秀衡は逝く。

 「今日、秀衡入道陸奥の国平泉の館に於(お)いて卒去す」(吾妻鏡同日条)

 死に臨んで秀衡が息子らに託した平泉の後事、遺言の場にいた義経のさまざまは、回を改め後に述べる。

 語る みちのくの遺産 東北福祉大教授 岡田 清一さん

 京都に匹敵する存在

 −平氏と源氏のせめぎ合いの中で平泉・藤原氏はどのような存在だったのか。

 当時の平泉については「玉葉」などの史料を見ても、伝聞として書かれたものが多い。実態はよくわからず、うわさでしか知ることができない存在だった。一方で朝廷は重要な儀式である競馬(くらべうま)に用いる馬の調達をはじめ、平泉の力を必要とした。

 1180年の頼朝挙兵の翌年、朝廷が秀衡を陸奥守に任じたのはその力を頼りに「夷(い)を以(もっ)て夷(い)を制する」ための策。しかし秀衡の死後、泰衡は頼朝の圧力に屈した。頼朝は平泉を滅ぼす2年前、九州南端の喜界が島まで攻め、全国を支配する意思を明確にしていた。泰衡はその意図を見抜けなかった。

 −奥州合戦で平泉はなぜやすやすと頼朝の軍門に下ったのか。

 頼朝勢28万騎に対し、泰衡も17万騎を擁しながら、戦いは頼朝が7月に鎌倉を出発してからわずか43日間で決着がついた。

 藤原氏と東北各地の豪族の関係を見ると、北東北は数代にわたって仕える郎従が多いが、南は婚姻や乳母関係など比較的弱い結びつきだった。頼朝を迎え撃つために平泉勢が布陣したのは現在の福島県北部にあたる阿津賀志山。なぜ奥州の入り口の白河の関ではなかったのか。頼朝は平泉の支配力など綿密な情報収集のうえで攻め入った。

 −平泉文化遺産の価値をどう見るか。

 平泉には12世紀の重要な遺跡、遺構が残り、文字で残された史料も多い。文献と考古の両面からアプローチできる希有(けう)な存在として京都に匹敵する。きちんとした形で保存していくことは非常に意義がある。

(聞き手は一関支社 小笠原裕)

文・学芸部 中村紀顕  写真・一関支社 高橋照雄



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