〈23〉三代秀衡 2006年2月27日


御所の夕景

雪に覆われた平泉町柳之御所遺跡の夕景。1本のシダレ桜の後方にこんもりと義経(ぎけい)堂のある高館(たかだち)が見える。右手の堤防下に北上川が流れる

 遺跡保存と開発両立

 平泉藤原氏三代・秀衡(ひでひら)の時代を、具体的に語りかけるのは政庁平泉館(ひらいずみのたち)だ。

 奥羽を統べる中心施設だった。

 どこにあったのか、長く存在がわからなかった。

 わかったのは、遺跡の消滅を前提とした緊急発掘の結果だった。

 平泉町の柳之御所遺跡こそが、政庁平泉館だった。

 遺跡の発掘と、保存にいたるまでの経過は、奇跡を見た思いが今も消えない。

 秀衡と奥羽のこと、古代から中世への橋渡しとなった平泉文化のことを考えるうえで、欠かすことのできない柳之御所遺跡を振り返り、秀衡の時代をたどる。

 発掘調査が始まったのは1988年。北上川の洪水治水対策として計画された一関遊水地、国道4号平泉バイパス建設のため県教委、県埋蔵文化財センター、平泉町教委が担当した。

 記録保存後、遺跡はなくなる運命にあった。

 なかで藤原清衡(きよひら)・基衡(もとひら)居館と伝承されてきた平泉町・柳之御所跡(後に柳之御所遺跡)が調査の中心だった。

 奇跡の発掘

 それまでにも柳之御所跡は、小規模な発掘がされてきた。しかし、目立った成果はなく、折々氾(はん)濫(らん)する北上川沿いの地形から、遺跡は浸食された、と思われていた。

 88年調査以降、ひさしつきの大型建物、大規模な堀、池の遺構や、中国・国内産陶磁器の優品、大量のかわらけなどの遺物が相次いで出土した。立(たて)烏帽子(えぼし)、墨書(ぼくしょ)折敷(おしき)といった希少な遺物も見つかった。ただならない遺跡であることを誰もが感じた。

 遺構、遺物は12世紀第3四半期、三代秀衡の黄金時代の跡だった。後に遺跡は初代・清衡時代から営まれていたことが明らかになってくる。

 92年8月、本紙は、北上川護岸沿いで掘り込みが見つかり、川の浸食でなくなったとみられていた遺跡の大半が、残存する可能性を報じた。

 保存運動が高まった。

 ただ、遊水地は単純な経済開発ではなく、水害から住民の命と財産を守る、平泉・一関両住民にとって悲願の大事業だった。

 平泉遺跡群発掘調査指導委員会(88年8月初会合)は、遺跡保存と遊水地事業の両立を終始一貫して探った。

 92年8月の委員会で、当時93歳の藤島亥(がい)治郎(じろう)委員長(2002年7月、103歳で死去)は「柳之御所は、一部だけ大事で後はどうでも良いというような遺跡ではない」「学者は真理の保存者である。これらの遺跡がなくなれば平泉の歴史はなくなるのだから、それをご承知おき願いたい」。熱っぽく説いた。

 藤島氏は平泉の名誉町民。東京大名誉教授で、1954年に平泉遺跡調査会を組織したことは以前紹介した。

 氏の主導が、保存に大きく寄与した。

恩人の視察

平泉町柳之御所遺跡の保存が決まった後、遺跡発掘現場を視察する藤島亥治郎氏(中央ベレー帽)。後方は北上川対岸の束稲山=1993年12月10日

 「英断」喜ぶ

 92年12月の委員会でも藤島氏は、委員の総意と前置きし「柳之御所遺跡は平泉館に間違いない。藤原三代のなかで最も隆盛を極め、源頼朝(よりとも)さえ手を出せなかった平泉12世紀後半(秀衡時代)の最重要遺跡だ」と断言した。

 発言は急だった。空は今にも雪が降りそうだった。外の寒気とは逆に、平泉町役場2階の狭い委員会会場は、熱気と緊張感に満ちた。

 本紙をはじめ新聞・放送は全国的なニュースとして速報した。

 翌93年9月の委員会。藤島氏は「昨年、柳之御所は平泉館との見解を述べた。私としてはここまで成果が上がっている以上、むげに(遺跡を)壊すわけにはいかない。保存に傾いている。その相談に乗ってくれるのか」と建設省、県、町に力強い口調で問いかけた。

 同年11月16日付本紙朝刊1面に、遺跡保存を伝える大きな見出しが躍った。

 「平泉・柳之御所遺跡/建設省、保存の方針/遊水地事業と『両立』/堤防・バイパス/ルート変更を急ぐ」

 建設省の大英断だった。英断は保存、開発双方にかかわった人、地元住民、未来の人々にとっても長く記憶されて良い。

 朝廷、源平ともに一目おいた藤原氏、なかでも秀衡が父祖を継いで主人公となり、歩を進め、眺め、起居した旧跡は、ついに残った。

 藤島氏は「どれほどうれしく安心したか。奥州藤原文化の中心地としてふさわしくありたい」と喜んだ。
 95年5月、文化財保護審議会が柳之御所遺跡の国史跡指定を答申。97年3月、官報告示によって正式に史跡になった。

 秀衡の政庁跡は、遺跡保存と開発両立の手本として全国に知られ今、世界遺産の正式登録を待っている。


 語る みちのくの遺産 元平泉町長 穂積 昭慈さん

  歴史の町誇り後世に

柳之御所遺跡保存問題に揺れた当時を振り返りながら「平泉が人類共通の遺産として認められてほしい」と願う穂積昭慈さん

 −柳之御所遺跡とどうかかわってきたか。

 県土木部次長から平泉町長となって3年目の1988年から緊急発掘調査が始まった。立派な建物跡が出土すると想像していたが、当初出てきたのは大量のかわらけなど。遺跡の重要性はいまひとつ認識不足だった。それでも町が主導して藤島亥治郎先生を委員長とする平泉遺跡群発掘調査指導委員会を設置し、遺跡の学術的な解明、判断をお願いした。

 −指導委員会を設置した狙いは。

 当時、奈良の平城京で遺跡にかかるバイパスのルート変更問題が起き、町長としてより土木技術屋として調査をきちんとしなければという思いがあった。建設省に事業推進を陳情すると「町長さん、あんたは(事業推進と遺跡と)どっちが大切と思っているのか」と問われた。事業推進と遺跡保存の両サイドから決断を迫られ、まさにサンドバッグ状態だった。

 −その遺跡保存の決断が世界文化遺産登録運動につながった。

 すべては平泉に情熱を傾けられた藤島先生のおかげ。名誉町民でもある先生から「私は(柳之御所遺跡を守れなかった)不名誉町民で終わりたくない」と言われたのが記憶に残る。95年秋に東京の赤坂御苑で開かれた園遊会で、皇太子殿下から「柳之御所は大変ですね」と声をかけられ、感激し勇気づけられた。

 4年前から平泉町世界遺産推進協議会長として登録運動の一翼を担っている。世界文化遺産登録が実現したらみんなで喜びを分かち合い、歴史の町に住む誇りを後世に伝えていけるよう微力を尽くしたい。

(聞き手は一関支社 小笠原裕)

文・学芸部 中村紀顕  写真・一関支社 高橋照雄



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