〈22〉三代秀衡 2006年1月27日


浄土の景観

平泉藤原氏三代秀衡が建立した平泉町・無量光院の夕景を北東から望む。中島から本堂を拝観すると、落日が金鶏山に沈み、浄土の景観だったとされる

 武家の顔と貴族の心

 北方の王者−。平泉藤原氏三代秀衡(ひでひら)は後、こう呼ばれる。

 秀衡の偉さは、源義経(よしつね)を庇護(ひご)したその一点だけでも際立つ。

 平泉隆盛の基を築いた父基衡の志を継ぎ、毛越寺の嘉勝(かしょう)(祥)寺を建立。その名の通り人格・体格ともに秀で、王者にふさわしい人物だった。

 1950年の中尊寺御遺体学術調査で、鈴木尚(ひさし)東大助教授(当時)は「(秀衡の)遺体は上肢・下肢ともに伸ばしたまま、少しく開き加減にし、あたかも昼寝をむさぼっているかのような状態で仰臥(ぎょうが)していた」と所見を述べた。

 その場に立ち会った調査委員で作家の大佛(おさらぎ)次郎氏は、金色の棺が開けられた場面を「北方の王者」として発表した。

 義経の庇護

 「−私は、義経の保護者だった人の顔を見まもっていた。−高い鼻筋は幸いに残っている。額も広く秀でていて、秀衡法師と頼朝が書状に記した入道頭をはっきりと見せている。下ぶくれの大きなマスクである。北方の王者にふさわしい威厳のある顔立(かおだち)と称してはばからない。牛若丸から元服したばかりの義経に、ほほえみもし、やさしく話しかけもした人の顔が、これであった」

 開棺は、歴史的瞬間だった。

 秀衡は、鎌倉幕府の史書吾妻鏡(あづまかがみ)をはじめ、源頼朝の信頼が厚かった公卿九条兼実(かねざね)の日記玉葉(ぎょくよう)などにひんぱんに名前が載る。筆者が史料にざっと目を通しただけで40項目近い。存在感十分だ。

 秀衡が、平泉藤原氏三代を継いだのは、父基衡(もとひら)が死去した1157(保元2)年ごろのこと。

 清衡(きよひら)以来の「俘囚(ふしゅう)の上頭」(蝦夷(えみし)の首領)の血筋とともに、43年に陸奥守(むつのかみ)となった藤原基成(もとなり)の娘を妻とし、京の貴族との姻族関係も築いた。

 蝦夷、安倍・清原氏以来連綿とした自存自衛の思想と尚武の気概、信仰による楽土づくり、加えて貴族に比肩する外交能力を備えた。

 時代は、平泉藤原氏を必要とした。時の歯車は、貴族の世から武士の世へときしみながら動きつつあった。

 そのささやかな音に、秀衡は気付いた。義経を庇護した理由の一つはそこにある。ただ藤原氏全体となるとどれほど気付いていたのか。

 平治の乱(59年)で、棟梁義朝(とうりょうよしとも)率いる源氏勢は敗北。義朝三男頼朝は伊豆へ配流された。

 敗れた源氏方の武将佐々木秀義(ひでよし)父子は、秀衡に身を寄せるため東国へ落ち延びようとする。秀義の伯母が秀衡の妻だったことによる。

 同様に、平家打倒を主唱した以仁王(もちひとおう)が敗死、源氏追討の決定が出された1180年6月、後の鎌倉幕府初代問注所執事(幕府裁判所所長)を務めた三善康信(みよしやすのぶ)は、頼朝に陸奥国に逃れるよう勧めた記述も残る。

 秀衡は、源平きっ抗の世で、奥羽の豪族としてだけでなく、日本の針路を左右する武士団の長と認識されていた。

遺志を継ぎ

父藤原基衡の死後、遺志を継いで秀衡が建立した毛越寺の嘉祥寺跡。吾妻鏡には「嘉勝寺」と表記されている。後方の大泉が池は雪に覆われ判然としない

 狩猟の図も

 武家の棟梁−との秀衡の自覚は、彼が政庁平泉館(ひらいずみのたち)西側に造った無量光院にも残っていた。

 吾妻鏡文治5(1189)年9月17日寺塔已下注文(じとういかちゅうもん)には

 「一 無量光院<新御堂(しんみどう)と号す。>の事」

として、これを秀衡が建立し、堂内四壁の扉に観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)の大意と、秀衡自身による狩猟の図(狩猟の体)が描かれていたこと。本尊は阿弥陀(あみだ)の丈六(じょうろく)仏で、宇治の平等院を模したものであることが記された。

 無量光院は、東から西を望めば、池中央に中島があり、その先に平等院よりわずかに大きい翼廊付きの本堂が、さらに背後に金鶏山が直線状に並んでいた。

 中尊寺仏教文化研究所・菅野成寛(せいかん)さんの検証で、4月14日と8月30日の年2回、金鶏山頂に落日がぴたり重なって沈むことがわかっている。

 中島にあった拝所に座し、金鶏山から本堂の阿弥陀仏を通って延びてくる夕日を目にした秀衡は、仏が来迎し極楽浄土にいるような感慨を持ったはずだ。

 貴族の浄土思想に近い思考とともに、「狩猟の体」が象徴する殺生をいとわぬ武士であるという自覚。秀衡の多面性を凝縮したのが無量光院だった。

 無量光院は、建物こそないものの礎石・基壇・中島などの存在が早くから知られていた。

 1922(大正11)年国史跡に、55年に特別史跡、2005年には世界文化遺産のコアゾーン(核心地域)に追加指定答申された。

 52年から行われた発掘調査は、05年で17次となり、本堂北側池跡の小島の存在が確認されるなど全容が着々とわかってきた。

 復元整備は進む。4月14日と8月30日に金鶏山に対したとき、秀衡が見た同じ浄土の景観をわれわれも見られるようになる日はきっとくる。


 語る みちのくの遺産 東北大名誉教授 入間田 宣夫(いるまだのぶお)さん

  日本的都市の先駆け

「日本人が造った独自の都市モデルは平泉が最初」と語る入間田宣夫さん=仙台市・仙台国際センター

 −秀衡の人物像をどう見るか。

 秀衡の遺言に「義経を大将軍として国務せしむべし」とあった。これは義経を大将軍として奥州に幕府を樹立しようとする強烈な意思表示にほかならない。最後まで頼朝と天下を争う器量と判断力、思慮深さを併せ持つ傑出した人物だったと思う。あと数年生きていれば歴史が変わっていたのではないか。

 −秀衡はなぜ義経を保護したのか。

 秀衡は、兄頼朝と対立した義経をあわれと思ってかくまったのではない。奥州に独立政権をつくるためのシンボルとしてわざわざ迎え入れた。そこには平泉の運命を義経に託すぎりぎりの政治的決断があった。

 地方の豪族「猛者」が源氏や平氏などの貴公子「貴種」を擁立して独立した地域権力を樹立する志向性は12世紀末の内乱期に最高潮に達した。地方豪族同士の天下取りゲームの頂点を最後まで争ったのが奥州藤原氏を背景にした義経と、北条氏の支援を受けた頼朝だったといえる。

 −平泉の歴史的価値をどう見るか。

 平泉にかかわったのは柳之御所の発掘調査が最初だった。平泉は当時、日本古代史の終わりととらえられていたが、実際に遺跡を見ると古代の終わりではなく、中世の始まりと言った方が適切。京都や奈良が中国のまねをして造られたのに比べ、平泉はむしろ後世の城下町に近い構造を持ち、日本的な都市モデルの先駆けをなしている。鎌倉は平泉を直接の手本とした。日本的な生活・文化を包み込む原風景が今日まで平泉に保たれているのはまさに貴重といえる。

(聞き手は一関支社 小笠原裕)

文・学芸部 中村紀顕  写真・一関支社 高橋照雄



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