〈21〉二代基衡 2005年12月24日


観自在王院

藤原基衡の妻が建立したといわれる観自在王院の跡。南門跡から中央の舞鶴が池に向かって幅約6メートルの園路が延びる(11月26日撮影)

 勢威示す毛越寺建立

 霊場の荘厳においては、吾(わ)が朝(ちょう)無双−。

 平泉藤原氏二代基衡(もとひら)が、晩年に建立着手した毛越寺は、冒頭のように「荘厳において日本に二つとない霊場である」と評された。

 皮肉にも、荘厳な堂宇の焼失を伝えた鎌倉幕府の史書・吾妻鏡(あづまかがみ)嘉禄2(1226)年11月8日条の記述だ。

 「陸奥(むつ)国平泉の円隆寺(えんりゅうじ)<毛越寺と号す。>焼亡す。(中略)霊場の荘厳においては吾が朝無双と云々(うんぬん)。右大将軍(源頼朝(よりとも))文治5年奥州征伐の次(ついで)に順礼せしめたまふの後、殊に信仰ありと云々」

 鎌倉に聞こえ、平氏の勢力圏だった京都、四国・九州にもない名刹(めいさつ)といわれた。

 吾妻鏡文治5(1189)年7月17日条「寺塔已下注文」は、毛越寺の威容を続ける。

 列挙された主なところは、以下であった。

 堂塔四十余宇、禅坊五百余宇。金堂を円隆寺と号す。本尊は丈六(じょうろく)(高さ約4・85メートル。ただし座像としてつくるとその半分)の薬師如来(にょらい)。講堂、常行(じょうぎょう)堂、二階惣門(そうもん)、鐘楼、経蔵、吉祥堂、千手堂。基衡が志半ばで死去(1157年ごろ)した後、息子秀衡が建立した嘉勝寺(かしょうじ)(現在は嘉祥寺と表記)と、壮大なこと甚だしい。

 建立のために費やした黄金・珍宝は計り知れない。基衡勢威を伝える挿話が残る。

 尽きぬ金宝

 円隆寺本尊薬師如来造立は、京の仏師・雲慶(うんけい)に頼んだ。着手に当たっては「円金百両、鷲羽百尻(しり)、アザラシの皮六十余枚、安達(福島県)の絹千疋(ひき)、希婦(けふ)(秋田県鹿角地方)の細布(せばぬの)二千反、糠部(ぬかのぶ)(岩手県北から青森県東南部)の駿馬(しゅんめ)五十疋」など限りがない。

 しかもそれを完成までの3年間送り続け、荷駄の列は山道、海道を絶えることがなかった。

 尽きることない金宝は、なお続く。

 生美(すずしの)絹(きぬ)船三艘(そう)分の到着に雲慶は「練絹(ねりぎぬ)だともっとうれしかった」と喜びのあまり軽口をきいた。伝え聞いた基衡は、早速練絹船三艘分を送った。

 届いたときの雲慶の驚きぶりが目に浮かぶ。

 礼を尽くしただけあった。本尊の出来栄えは比類なかった。仏像を見た鳥羽(とば)法皇が、京の外へ出すことを一時禁じるほどだったとも記された。

 毛越寺の大伽藍(がらん)、なかでも南大門は、南から平泉を訪れる人々にとって象徴的な建造物(ランドマーク)だった。

 毛越寺庭園東の道路には、車宿があった。接するように観自在王院が建っていた。

 基衡妻(前九年合戦で源氏に降伏し、伊予に配流された安倍宗任(むねとう)の娘とされるが、異論もある)が、夫の死後に建立し、池を中心にした庭園に堂宇は映えた。

 藤原氏を討ち、平泉に進駐した源頼朝は、地元僧侶の懇願を入れ中尊寺・毛越寺をこれまで通りに扱うことを決めた。

礎石は今も

日本に二つとない霊場といわれた毛越寺の円隆寺基壇部分。今も大きな礎石が残る。礎石は円隆寺だけで54個確認され、建物の壮大さを伝える(11月26日撮影)

 二重の誉れ

 そのことを告げる壁書を、周知のため円隆寺南大門に張り出させたのも、ランドマークであったればこその処置といえる。

 藤原氏の時代が終わり、時は過ぎた。前段に紹介したように毛越寺、観自在王院の伽藍は焼亡した。

 平泉遺跡群研究の第一人者だった藤島亥治郎(がいじろう)氏(東京大名誉教授・2002年7月、103歳で死去)が、最初に毛越寺を訪れたのは1929(昭和4)年のこと。

 「(大泉が)池に菱草が繁茂し、堂跡、特に観自在王院の堂跡は丈高く茂った雑草に覆われているという荒廃の状態」(藤島亥治郎著「平泉建築文化研究」)だった。

 藤島氏は、54年に平泉遺跡調査会を組織した。同年から観自在王院跡、翌年からは毛越寺跡も含め調査を続けた。

 南大門、築垣(ついがき)、池橋、中島、円隆寺。遺構の全容は次々と明らかになった。

 南大門から大泉が池を橋で渡った先に、金堂円隆寺を見渡す。見事な寝殿造り系の庭園が姿を現した。

 復元整備の末、毛越寺は国の特別史跡(52年指定)に加え、特別名勝(59年同)と二重の誉れに輝いた。観自在王院は2005年、名勝に指定された。世界遺産への一翼を担った。

 3月19日の命日を中心に、毛越寺は来年、基衡公没後850年御遠忌(ごおんぎ)を行う。

 基衡、ならびに妻女の創業と、多くの人々の尽力は、世界遺産登録へのとびらを押し開けようとしている。

 同時にわれわれは今「荘厳さにおいて日本に二つとない」とまでいわれた寺院群を囲む浄土の景観を、目にすることができる。

 この喜びは、実際に眼前にし感じる以外、比すべきものはない。


 語る みちのくの遺産  毛越寺執事長 藤里 明久(みょうきゅう)さん

   平和の理念を具現化

「安らぎと潤いにあふれた浄土庭園に立って、平泉が発信するメッセージを感じてもらいたい」と話す藤里明久さん

 −来年の基衡公850年御遠忌の主な日程を伺いたい。

 遠忌は50年ごとに執り行われる法事。基衡公の遠忌は寺にとって50年に一度の重要な節目となる。命日の3月19日に檀(だん)信徒による大法要、旧暦の3月19日に当たる4月16日には毛越寺と中尊寺合同の大法要を営む。寺の仏画展や四季の写真展、夏には「姫神」の本堂ライブなども計画している。

 −基衡公の事跡をどうとらえているか。

 初代清衡公が「中尊寺建立供養願文」で明らかにした平和の理念をあまねく人々に知らしめるため、具現化したのが毛越寺を造営した基衡公であり、無量光院などを建立した三代秀衡公だった。

 日本有数の浄土庭園として特別史跡、特別名勝の二重指定を受けている毛越寺、基衡夫人が建立した名勝・旧観自在王院庭園は世界遺産登録を目指す「平泉の文化遺産」の中心の一つを成す。清衡公、秀衡公にはさまれてこれまではどちらかといえば目立たなかった基衡公の功績をもっと広く知ってもらいたい。

 −世界文化遺産登録の意義を。

 平泉の寺々は藤原氏のためだけに建立された存在ではなかった。そこには藤原三代をはじめ、みちのくの平和を希求する人々の強い願い、意志が貫かれていた。三代約100年にわたって平和が保たれたのは当時の時代背景を考えると驚くべきことだ。寺を造り、守ることは財力だけではできない。900年近く守られてきたものをきちんと伝えていくのは現代のわれわれの役目。世界の評価を受け、人類共通の文化遺産として後世に伝えていけるならばこんなうれしいことはない。

(聞き手は一関支社 小笠原裕)

文・学芸部 中村紀顕  写真・一関支社 高橋照雄



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