S二代基衡 2005年11月21日


庭園の荘厳

毛越寺大泉が池南東端から北西の嘉勝寺跡方向を望む。池に突き出した立石が浄土庭園の荘厳を今に伝える

 奥羽独立の時代築く

 平泉藤原氏二代・基衡(もとひら)は、豪胆だった。といって猪突(ちょとつ)の人ではなく、冷静さと情理もわきまえた武人であった。

 藤原三代のなかで、最も背高く胸厚い恰幅(かっぷく)の良い人物であった−と、鈴木尚東大助教授(当時)の御遺体学術調査(1950年)所見も豪勇さをうかがわせる。

 清衡(きよひら)の死去は、1128(大治3)年7月13日。

 基衡の名前は、翌年8月21日、文献に初めて登場する。権(ごん)中納言源師時(もろとき)の日記「長秋記(ちょうしゅうき)」のなかだ。

 意訳すると「陸奥(むつ)国の清衡の2人の子、基衡と惟常(これつね)が合戦し、都への貢納が滞る」と記された。

 次いで大治5年6月8日長秋記に、合戦の経緯が載った。

 上京し、源義成(よししげ)に再嫁した清衡の元妻(正妻ではなく惟常側の人といわれる)からの伝聞として「清衡長男(字は小館(こだち))は、弟(字は御曹子(おんぞうし))に攻められ20余人を率いて小舟で逃れようとした。それを知った御曹子は陸上を追撃しついに兄の首を切った」と。

 御曹子とは基衡のこと。清衡正室の嫡子であったという。創業の父の遺産を、二代目として波風なく相続したのではなく、軍を動かし妾腹(しょうふく)の兄を倒して掌中にした。

 兄弟の死闘

 父の、戦のない浄土を築く悲願を承知のうえでなお、兄弟の死闘が起きた。藤原氏の権威が盤石ではなく、この争いは地歩固めに必然だったのか。だとしても歴史の皮肉と思わざるをえない。

 この時期の基衡には、軍事力だけでなく運もあった。父清衡や祖父の代に、口実を見つけ介入し、覇権を築こうとした源氏の棟梁(とうりょう)が、藤原氏の相続争いには手出しできなかった。

 なぜか−。

 保元の乱(1156年)を記した軍記・保元物語のなかに興味深い記述がある。

 源為義(ためよし)(1096−1156年)が基衡の時代に陸奥守就任を望んだ。

 公卿(くぎょう)は「為義の(曾)祖父頼義(よりよし)が陸奥守のとき前九年合戦があった。(祖父)義家(よしいえ)のときは後三年合戦が起きた。源氏にとって意趣残る国であり、為義が陸奥守になったなら、基衡を滅ぼそうと考えるだろう」と許可しなかった。

 朝廷も、源氏の野望に歯止めをかける時期だ、との認識があった。

 この為義の長男が義朝(よしとも)、義朝の三男が頼朝(よりとも)、九男は義経(よしつね)となる。

 頼朝が藤原氏を滅ぼしたのは後に自身が語り、鎌倉幕府の史書吾妻鏡(あずまかがみ)に記載されたように「(平泉藤原四代)泰衡(やすひら)もさしたる朝敵ではない。私の宿意(かねての恨み)」であった。

 基衡に戻る。

延寿込めて

毛越寺創建当初から受け継がれてきた延年舞のうち「老女」。国重要無形民俗文化財に指定され、長寿をことほぐ。正月20日に常行堂で舞うだけでなく、5月の春、11月の秋の藤原まつりでも舞う

 勢威ふるう

 源氏の介入がなかったことで、期せずして父の願った奥羽独立の時代を、基衡は確実にした。

 吾妻鏡は基衡のことを「果福父に軼(す)ぎ−」(文治5=1189=年9月23日条)と評した。清衡以上に名声と実力を備え、勢威はさらにふるう。

 豪胆さを示す記述は、鎌倉初期の説話集・古事談や、十訓抄(じっきんしょう)に見える。

 陸奥守として着任した藤原師綱(もろつな)が、宣旨(せんじ)(天皇の命令書)を得て検注(けんちゅう)(検地)をしようとした。基衡は拒んだ。信夫(しのぶ)郡(福島市)では紛争に発展した。

 1143(康治2)年ごろ、検注の役人に、信夫郡地頭・大庄司の季春(すえはる)が弓を射かけた。けが人も出た。基衡の命によるものだった。しかし、季春は「独断でやった」と罪を一身に負い処刑された。

 処刑にいたるまで、基衡も手を尽くし助命を嘆願した。基衡妻が陸奥守の館に出向き、砂金一万両などを贈ろうとしたが、かなわなかった。

 当時の砂金の価値を、現在の金額と単純には比較できない。ただ、研究者の教示によると平安から戦国時代の場合砂金一両は地方で17・63グラム。金価格を1グラム当たり約1800円とすれば一両が3万1700円。結果として基衡が家来の助命に用意した砂金だけで、3億1700万円という膨大な金額になる。

 「陸奥守なにするものぞ」という意識が基衡と、家来のなかに垣間見える。

 同時に、平泉藤原氏のけた外れの財力と、主従の信頼・情愛をもこの挿話は示している。

 基衡も父と同じく修羅(しゅら)をくぐり、地歩を固めた。父の遺志を継ぎ、威信を傾け、ついに新たな寺院の造営に乗り出す。

 「一 毛越寺の事

堂塔四十余宇、禅坊五百余宇なり、

基衡之を建立す、先ず金堂を円隆寺(えんりゅうじ)と号す−本仏は薬師丈六−(以下略)」

 吾妻鏡文治5年7月17日条、有名な「寺塔已下注文」に記された毛越寺の威容だ。

 山上の関山・中尊寺に対し、平泉の平地に基衡は、毛越寺という極楽浄土を出現させた。


 語る みちのくの遺産  東北芸術工科大教授  田中 哲雄さん

   作庭記通りの遣水跡

「毛越寺には寝殿造り系庭園の基本形がある」とその重要性を強調する田中哲雄さん=山形市・東北芸術工科大学

 −平泉とのかかわりを。

 1980年から進められた毛越寺浄土庭園の発掘調査・整備に最初は国立奈良文化財研究所、その後は文化庁の担当者として携わった。その結果、平安時代末期に橘俊綱が著した庭づくりの秘伝書「作庭記」の記述通り、北東から南西に流れて大泉が池に注ぐ遣水(やりみず)跡が確認された。護岸の景石や底石、水切り石、横石、水越の石など、作庭記の内容とほぼ合致する状況で検出。あれほど完全な形で出てくるとは予想していなかっただけに、みんな感激した。

 −毛越寺庭園の重要性はなにか。

 基衡が造営した毛越寺庭園は、西方浄土の配置ではなく、中心的な建物(毛越寺は金堂円隆寺跡)が北に位置する寝殿造り系庭園の典型。池の西南隅の立石を中心とした荒磯(ありそ)風石組みの護岸や、玉石を緩いこう配で敷き詰めた州浜(すはま)などの意匠は寝殿造り庭園の教科書である「作庭記」流の代表的庭園と言える。

 −庭園の専門家として平泉文化遺産をどう見るか。

 庭は本来、斎庭(ゆにわ)(清められた神聖な場所)で、祭祀(さいし)の場だったのが、律令制に入ると儀式や饗宴の場として池などが整備された。平泉の場合は毛越寺が寝殿造り系庭園、無量光院が浄土系庭園であり、鎌倉の永福寺(ようふくじ)、称名寺などにつながる。中尊寺庭園の調査が今後進められれば、平泉三代の庭園の流れがさらに明らかにされると期待している。

(聞き手は一関支社 小笠原裕)

文・学芸部 中村紀顕  写真・一関支社 高橋照雄



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