A情熱注いだ伽藍建立 2004年5月31日

 世界文化遺産を目指す平泉の史跡のうち、中尊寺は、標高130メートルの「関山」にある。境内は1979(昭和54)年、国の特別史跡に指定された。

田植えのため水を張った水田から北に、中尊寺大池跡の中島(中央)を望む。大池が再現されたかのような景観に、左手にあったかもしれない伽藍群さえ想像できる
=5月14日

 山上から平泉、奥羽、日本、世界の平和を祈り続けている。

 鎌倉幕府の史書「吾妻鏡(あずまかがみ)」文治5(1189)年9月17日付、源頼朝に対し、平泉の衆徒が奥州藤原氏の事績や堂塔のことを説明した「寺塔已下注文(じとういかちゅうもん)」に、中尊寺草創の経緯が述べられている。

 「関山中尊寺の事−清衡六郡を管領するの最初、之を草創す−寺院の中央に多宝寺有り、釈迦多宝の像を左右に安置す、其(その)中間に関路を開き、旅人往還の道と為(な)す」

 南北を結ぶ大動脈を清衡は支配下に置いた。

 現在も弁慶堂まで約250メートル続く月見坂は、この旅人往還路で、仏が慈悲を注ぐ道であった。

 1126(大治元)年3月24日、中尊寺は落成を祝う、落慶の日を迎えた。

 2年後の7月、奥州藤原初代・清衡は73歳で“大往生”を遂げる。清衡が晩年に情熱を傾けたのが伽藍(がらん)建立だった。

 落慶の日の天候は、記録にない。天候がどうあれ、輝きの日だったと想像できる。

 荘厳の寺塔を前に、僧侶による散華が行われ、声明の声とずしりと響く鐘の音が一山に伝わったはずだ。

 願文に自負

 当時の伽藍は焼亡した。ただ、どのような寺塔があったか、落慶供養の日、大檀那(おおだんな)(施主)である清衡が、読み上げたであろう中尊寺建立供養願文(がんもん)(建立の趣意書)で知ることができる。

中尊寺建築群のなかで最大規模の威容を誇る本堂。1909(明治42)年再建と記される。入り母屋造りの大屋根と、「空・風・火・水・地」を表す5色の幕が美しい

 願文の正本もまた失われた。が、藤原輔方が書写(1329年)したものと、北畠顕家書写(1336年)の2巻が一山の大長寿院に伝わる。

 本文は漢文。佐々木邦世・中尊寺執事長が「平泉町史 史料編一」で読み下している。

 読み下しの冒頭「敬白(けいびゃく)/建立供養し奉る鎮護国家大伽藍一区のこと」とある。

 「鎮護国家大伽藍」に、清衡の大きな自負を感じた。

 以下、大伽藍の説明が続く。

 ここまで発掘によるものはない。文献に頼った。

 その中尊寺を訪ねた。国道4号を同寺前交差点で西に入り、月見坂を上った。日を遮る杉木立が気持ち良い。急坂で少し息が切れる。

 途中、坂を迂回(うかい)するように設けられた東物見で衣川古戦場を展望しながら呼吸を整えた。

 再び坂に戻る。威厳のある山門から、本堂の勇大な屋根を望み、緩い下り坂を進むと讃衡蔵(さんこうぞう)、金色堂前の伝金堂跡前広場に出た。空に向かいぽっかりあけた空間だ。

 発掘に託し

 伝金堂跡を含む境内は、平泉遺跡調査会が1959(昭和34)年から発掘調査した。

 結果は、同調査会の藤島亥治郎東京大名誉教授らによってまとめられている。

 2002年7月、103歳で死去した藤島さんは、平泉研究の第一人者で、柳之御所遺跡の保存と国史跡指定、平泉遺跡群解明に晩年の情熱を傾けた。

 限られた範囲の調査では、願文に沿う形の遺構は、中尊寺境内から見つからなかった。吾妻鏡の寺塔已下注文に合致する部分はあった。

 願文の伽藍は、中尊寺ではなく毛越寺だ−とする説が出された。一方で、毛越寺説でも説明のつかない部分も多かった。

 藤島さんは「中尊寺大伽藍は(讃衡蔵・金剛院南の)大池跡周辺にあった」と主唱、中尊寺仏教文化研究所の菅野成寛さんらは、近年の発掘成果と研究を基に補強する学説を展開している。

 観光客でにぎわう境内を離れ、参道から西南に下がった大池跡前に立つ。静かだ。目を凝らせば中島状の隆起が見える。
 清衡と、藤島さんが情熱を注いだ大伽藍の全容は、大池跡の本格調査がなければ確としたものにならず、なお春秋を待たねばらない。


 語る みちのくの遺産 中尊寺貫首・千田孝信さん

 平和願う魂、胸に刻んで

「平和思想を世界に発信するのが平泉の役割」と力をこめる千田孝信中尊寺貫首

 平泉文化遺産の世界遺産登録は、多くの人々に支えられて準備が進んでいる。地元で運動推進の旗を掲げて先頭に立つ人々。平泉に魅せられて応援の努力を惜しまない人々。世界遺産の早期登録を願うメッセージは、どれも力強い。インタビュー企画の初回は平泉・中尊寺の千田孝信貫首に登録への期待などを聞く。

 −平泉文化遺産が世界遺産に登録される意義をどうとらえるか

 平泉文化には高い精神性がある。藤原清衡公は中尊寺建立に当たり「鳥獣魚介を含め、戦の犠牲になったすべての魂を安らぎの浄土に導きたい」と願った。心の中に平和のとりでを築けと訴えるユネスコ精神を12世紀に既に実践していたことになる。岩手の人々は、この東北の魂をぜひ胸に刻んでほしい。

 −平泉には精神文化が脈々と流れてきたと思うが

 清衡公の目指す「安らぎの寺」は僧侶だけでは実現しない。住民が熱心に寺院を訪れて一緒につくってきた。敬意を表する。

 −世界遺産登録に向けて平泉町民、岩手県民が心掛けることは何か

 登録は中尊寺、毛越寺だけでなく町全体が対象であることをもっと認識してほしい。平泉文化は広く周辺地域とのつながりで成り立っていることも心に留めるべきだ。気仙沼市長は「気仙沼は平泉の港町だ」と表現したが、多くの市町村が平泉を支援している。

 −中尊寺貫首を11年間務め、何が深く心に刻まれているか

 土着であることの強さ。藤原時代は4代にわたり、地元の手で地域の文化を築いた。宮沢賢治や石川啄木のように、みちのくの大地からわき出る地涌菩薩(じゆうぼさつ)たちはたくさんいる。この人材を大切にする土地でありたい。それが文化だ。

(聞き手は一関支社 達下雅一)


文・学芸部 中村紀顕  写真・一関支社 高橋照雄




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