R後三年合戦C 2005年10月25日


勇者の証し

横手市・金沢公園入り口左手にある景正功名塚。後三年合戦で勇戦した鎌倉権五郎景正が、将軍源義家に命じられ敵のしかばねを埋葬し、杉を植えたという。杉は1948年火災に遭い、今は幹だけが残る

 戦乱は過ぎ清衡残る

 武勇を競い、後三年合戦(1083−87年)で清原、源氏両軍ともに掉尾(とうび)の勇を奮ったのが金沢柵(かねざわのさく)の戦いだった。

 金沢柵は、北上市から奥羽山脈をはさんだ秋田県横手市の北方に位置する。

 JR横手駅から北約8キロ、国道13号沿いのこんもりとした山城跡だ。金沢公園として整備されている。

 標高174メートル、山すその水田との比高は90メートルか。曲がりくねる舗装路を登る。眼下の横手盆地は海原のように広い。

 約40年前、短期間の発掘調査がされた。中世城館跡が見つかった。しかし、明確に後三年合戦時のものはなかった。

 後三年合戦の後半、清原家衡(いえひら)・武衡(たけひら)が沼柵(ぬまのさく)から、より堅固な金沢柵に籠城(ろうじょう)したことで、源義家(よしいえ)は憤る。

 攻める義家苦戦を聞き、1087(寛治元)年9月ごろ、弟の新羅(しんら)三郎義光(よしみつ)が勅許を得ないまま、官職(左兵(さひょう)衛尉(えのじょう))をなげうち下向してきた。

 義家は、弟の情に感激する。早速弟を副将軍とし、数万騎を率いて出陣した。陣中には清原清衡(きよひら)(後の平泉藤原氏初代)も加わっていた。

連なる歴史

横手市・平安の風わたる公園は、後三年合戦の古戦場の一つとされる。進軍する源義家が雁行の乱れから伏兵を知った。公園内の西沼には雁(かりがね)橋と名付けられた三連橋がある

 雁行の乱れ

 金沢柵攻防には、さまざまな挿話がある。

 後三年合戦絵巻のなかで、最も知られたのが「雁行(がんこう)の乱れ」だ。進軍する義家は、雁の群れが刈り田に降りようとしながら、何かに驚き飛列を乱し飛び去るのを見た。

 「軍が野に伏兵としてあるとき、飛雁列を乱す」。兵法の師・大江匡房(まさふさ)の教えを思い起こした。

 「伏兵がいる」。兵を走らすと案の定、敵兵300(30とも)余騎を発見し、け散らした−と古今著門集、奥州後三年記は伝える。

 金沢柵跡から南西約2キロの平安の風わたる公園に、この故事のレリーフとモニュメントがたつ。

 攻防は激しかった。

 先鋒(せんぽう)軍に相模国の鎌倉権五郎(ごんごろう)景正(かげまさ)(景政とも記す)がいた。16歳。武勇で知られた若武者だ。

 最前線で戦ううち、敵の矢が、右目を貫き通した。ひるまず、矢を放った敵を射殺し自陣に帰る。兜(かぶと)を脱ぎ景正は「手負うた」とあおむけに倒れこんだ。

 同郷の三浦平太郎為次(ためつぐ)が駆け寄った。景正の顔に足をかけ、矢を引き抜こうとした。

 景正は伏しながらも抜刀し、為次の鎧(よろい)の草ずりをつかみ突きかかる。

 為次は驚き「何をする」と叫んだ。

 怒っていたのは景正の方だった。「矢に当たって死ぬのは兵の本望。だが、土足で顔を踏まれることはあってはならぬ。今からは汝(なんじ)こそ敵だ」

 為次は一言もない。ひざをかがめ、顔を手で押さえて矢を抜いた(奥州後三年記)。

今に伝える

横手市・平安の風わたる公園には、後三年合戦絵巻のなかの「雁行の乱れ」部分をレリーフにした塀がたつ

 自他の命に執着することなく、名誉に生きる。後の鎌倉武士のありようを端的に示す話だ。

 景正の功名を伝える塚が、横手市金沢公園入り口にある。

 神奈川県鎌倉市には、景正を祭神とする御霊(ごりょう)神社が鎮座する。江ノ島電鉄極楽寺駅から、極楽寺坂を下っていくと線路をはさんで、覇気あふれるような森の傍らに社が鎮まる。

 神と祭るほど景正の振る舞いは、同時代の兵と、子孫にとって「見事」だったのだろう。

 余話ながら、源義経(よしつね)を讒言(ざんげん)した、と後々まで人気のない源頼朝(よりとも)家来・梶原景時(かげとき)は、景正の子孫だ。

 「景」の一字をもらい、鵯越(ひよどりごえ)の逆落としへと続く一の谷(神戸市)の合戦で、いったん退いた戦場に再度突撃する勇猛さを示した。世評と違い、勇者の末裔(まつえい)として恥じなかった。

 平家物語は、そのくだりを「梶原二度の駆(かけ)」とたたえている。

 金沢柵落城

 兵の奮戦とは別に、金沢柵は、合戦勃発(ぼっぱつ)の当事者の一人・吉彦(きみこの)秀武(ひでたけ)によって落城に向かう。秀武は兵糧攻めを進言し、義家も策をとった。

 窮した籠城兵と女、子どもは城を捨てた。全員が待ちかまえた義家軍に殺りくされた。

 11月4日、金沢柵は落城した。

 家衡、武衡も討たれ、首をはねられた。

 朝廷はこの合戦を、義家の私戦とみた。義家が求めていた追討官符を下さなかった。

 なんの恩賞ももらえぬことを知り、義家は家衡、武衡の首級を投げ捨て、戦場を去った。

 前九年合戦の源頼義(よりよし)といい、後三年合戦の息子義家といい、名将といわれた武門の棟梁(とうりょう)にしては、あまり戦上手とはいえない。敵将を遇することもなく、残酷な戦いぶりが絵巻に残された。

 戦乱を含む36年間が、奥羽の地を過ぎた。残った有力者は、清衡ただ1人。安倍・清原両氏の遺産を継いだ。清衡は、亡き父の姓である「藤原」に復した。

 極楽浄土の地を奥六郡につくることを誓い、本拠地を江刺から平泉へと進めた。嘉保(1094−96年)、あるいは康和(1099−1104年)年中のことだった。


 語る みちのくの遺産  後三年の役金沢資料館副館長 増田寿夫さん

   浄土思想に例外なし

「わが方に金色堂を建立してもらいたかった」と冗談を交えながら平泉の世界文化遺産登録を願う増田寿夫さん=横手市・金沢公園

 −後三年合戦に関して地元には多くの伝説が残されている。

 「雁行の乱れ」に並んで知られているのが鎌倉権五郎景正の武勇を伝える「片目かじか」の伝説。子どものころ、金沢柵跡の北側を流れる厨川でカジカ捕りをして遊んでいると何10匹かに1匹の割合で右目がつぶれたカジカが取れた。父親からは「権五郎景正が目を洗ったからだ」と聞かされたことがある。実際、1957年に捕獲された「片目かじか」のホルマリン漬けとエックス線写真は資料館に展示している。源義家が馬糧に調達した俵詰めの煮豆が納豆に変わったという「納豆発祥伝説」もある。

 −周辺に残る史跡を見ると、清原氏を顕彰するものが少ないように思われるが。

 確かに「平安の風わたる公園」に描かれたレリーフは源義家が主人公の「雁行の乱れ」であり、金沢柵跡に立つのは景正功名塚。後三年合戦後に藤原清衡が義家の命を受けて建立した金沢八幡宮は戦時中は戦の神様としてあがめられ、横手、平鹿一帯の出征兵士は同神社に参拝してから戦地に赴いた。清原氏は前九年合戦で源頼義側に手を貸し、同じ東北の民である安倍氏を滅した。秋田県人としてもその事実に複雑な思いを抱く人は多いのではないか。

 −世界文化遺産登録を目指す平泉にメッセージを。

 横手市には清衡の三男正衡が居を構え、正衡の守り本尊が本尊になっている正平寺(しょうへいじ)がある。平泉には毎年3回は通っているが、中尊寺建立供養願文には「官軍夷虜(いりょ)」を含めた霊をあまねく浄土に導く願いが込められ、清原一族も例外ではない。ぜひ世界文化遺産登録を実現してもらいたい。

(聞き手は一関支社 小笠原裕)

文・学芸部 中村紀顕  写真・一関支社 高橋照雄



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