Q後三年合戦B 2005年9月25日


義家を撃退

清原家衡が、源義家軍を撃退した沼柵本城跡とされる雄物川町・蔵光院。家衡の事績をしのぶ碑が山門前に立つ

 清衡・家衡兄弟が衝突

 「病に侵され頓死し了(おわ)んぬ」−。

 1083(永保3)年秋、後三年合戦の征旅の途次、清原一族惣領(そうりょう)家当主の真衡(さねひら)は唐突に死去した。

 なんの病か、詳細は不明で、死因は想像するほかない。

 高橋崇(たかし)・元岩手大教授(日本古代史)は「暗殺説がささやかれている。“犯人は(源)義家(よしいえ)だ”と」(「蝦夷(えみし)の末裔(まつえい)」1991年、中公新書)とする。

 大矢邦宣(くにのり)盛岡大教授(日本文化史)は「真衡頓死、あまりにもタイミングがよすぎる裏側に、将軍(源義家)の影をみるのは、読みすぎだろうか」(「奥州藤原氏五代」2001年、河出書房新社)と、常ならぬ死をほのめかせている。

 この真衡頓死と、以降沼柵(ぬまのさく)の戦いまでの部分は「後三年合戦絵詞(えことば)」「奥州後三年記」の双方とも欠落している。

 唯一記録してあるのが室町時代の権大外記(だいげき)・中原康富(やすとみ)(?−1457年)の日記「康富記」だ。

 文安元(1444)年閏(うるう)6月23日のくだりに、伏見殿に行き、仁和寺(にんなじ)宝蔵から取り寄せた「後三年絵」という絵巻を見た、と記されている。康富は絵巻の情景を記憶し、日記へ記した。

 そこには「此間真衡於出羽発向之路中侵病頓死了」とはっきりある。

 康富記が今に伝わらなければ、真衡の死、その後の清原清衡(きよひら)(後の藤原清衡)と異父弟・家衡(いえひら)の衝突といった経緯は、伝わらなかった。

堅固な山城

伯父清原武衡の進言で、清原家衡が転進し防御を固めた横手市の金沢柵跡。古代の後、中世も軍事拠点として使われ堅固な山城の名残が今も残る

 妻子ら殺害

 真衡と、対する吉彦(きみこの)秀武(ひでたけ)・清衡・家衡の一族内紛に、着任したばかりの陸奥守(むつのかみ)源義家が介入した。

 清衡・家衡は真衡の死後、すぐ義家に降伏を請う。義家も両者を許した。それどころか清原惣領家が受け継いできた奥六郡を三郡ずつに分割し、2人に支配させた。

 分割は新たな火種となった。清衡・家衡兄弟に確執が生じる。

 この三郡がどう分割されたか。康富記は伝えない。

 ただ、後に家衡が不満から清衡を襲ったこと、清衡の本拠地が江刺市にあったことから類推して、地味豊かな胆沢・江刺・和賀の南三郡が清衡に、稗貫・紫波・岩手三郡は家衡となった可能性を指摘する研究者は多い。

 不服が募った家衡は、義家に清衡のことを讒言(ざんげん)する。義家は取り合わない。逆に清衡を「抽賞(ちゅうしょう)」、彼だけ賞した。

 憤まんの果て、家衡は暴発した。

 同居していた清衡居館に放火し、清衡妻子と親族、従者らをことごとく殺した。

 襲撃を察知した清衡ただ一人、草むらに隠れ難を逃れた。それ以上どうしようもなかった。

 殺された方が良かった、と思ったかもしれない。父・藤原経清(つねきよ)や伯父・安倍貞任(さだとう)らが目の前で死んでいった前九年合戦に続き、またも愛する人々の死を眼前にする地獄を味わったからだ。
 この極限体験こそ清衡が、平和な浄土の世を希求し、中尊寺建立を思い立つ根本となった。

 義家が挙兵

 清衡は、家衡の非道を義家に訴える。

 全面的な軍事侵攻の好機に、義家は源氏軍数千騎を率い、沼柵にこもった家衡軍と対決する。

 後の歴史から振り返ると、この時点から後三年合戦の後半に入った。

 この時期はいつか、記載はない。だが、関白藤原師通(もろみち)(1062−99年)の日記「後二条師通記」の1086(応徳3)年秋に、陸奥で起きた兵乱がしきりに出る。

 また、後三年合戦が終結(87年)する金沢柵(かねざわのさく)(横手市)の戦を述べた後三年記に「去年のごとくに」と沼柵の戦いを振り返っていることから家衡蜂起は、86年と考えられる。清原真衡の死から、3年がたっていた。

 秋田県雄物川町沼館に、沼柵本城跡と伝えられる地がある。今は蔵光院という寺院の境内だ。

 雄物川をはじめとした、大小河川に囲まれる要害だったという。本堂裏手に回ると一段低い段丘として水田が広がる。ここが水で満たされると、確かに攻め難い。そんな地形が今もみてとれる。

 義家軍の攻撃は、苦戦する。冬が到来し、雪に悩まされた。寒さと飢えで死ぬ兵も増える。義家は凍死しそうな家来を懐に抱き、生き返らせたとも書かれている。

 天に見放され、義家は兵を引くほかなかった。

 義家軍を撃退した沼柵の家衡を、伯父清原武衡(たけひら)は訪ねた。「国司(源義家)を見事に追い返した武勇は君一人のほまれではない。一族の面目をほどこした」とたたえる。

 加えて、沼柵より堅固な金沢柵に移ろうではないか、と進言した。

 家衡・武衡は転進、金沢柵に立てこもった。


 語る みちのくの遺産  秋田県立博物館名誉館長 新野直吉さん

   二度の大乱、平和希求

「平泉は、平和を希求した藤原清衡の思いからつくられた都。その精神こそ世界文化遺産にふさわしい」と語る新野直吉さん=秋田県立博物館

 −前九年、後三年の両合戦をどう見るか。

 ひと口に言えば、東北に覇をとなえたい源氏の野心がもたらしたといえる。「夷(い)をもって夷を制する」とされたように、前九年合戦では清原氏が安倍氏を滅ぼし、後三年では源義家が清原氏の権力構造を地域豪族の連合体と見抜き、清原一門の半分を利用して他の半分に勝った。義家の清原攻めに対して朝廷が太政官符を出さなかったのは、朝敵との戦いではなく「私戦」とみなしていたからであり、源氏に対する評価は正確だったといえる。

 −源氏はなぜ、奥羽に覇権を求めたのか。

 そのころの源氏は信州、甲州に一定の勢力を持っていたものの、坂東まで平氏などに押さえられていた。武門の名族清和源氏の棟梁(とうりょう)頼義の陸奥守登用は平氏の力の及ばない東北に勢力を伸ばす好機到来だった。結果的に義家は後三年合戦で恩賞にあずかれずにむなしく京に上ることになるが、後に頼朝が平和の都平泉に攻め入り、源氏の宿願を果たした。

 −二度の大乱は古代東北に何をもたらしたか。

 東北の覇者たちは、自らの積極的な欲望で相手を攻め滅ぼしたのではない。多くの場合、源氏の手先となって仲間を裏切るがごとく攻め、覇権を握ったのであり、生きのびるためにやむを得なかった。だから勝ってはみたものの心は晴れない。親や妻子を殺され、辛酸をなめ尽くした藤原清衡はだれよりも平和を希求し、仏法にのっとった平和の都を造りたいと願った。中尊寺建立の趣意と願望とをしたためた「供養願文」にはその思いが強く表れている。平泉の一世紀にわたる平和は、清衡がその苦難の半生の中で培った強い意思と使命感がもたらしたといえる。

(聞き手は一関支社 小笠原裕)

文・学芸部 中村紀顕  写真・一関支社 高橋照雄



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