P後三年合戦A 2005年8月24日


躍進の拠点

江刺市岩谷堂餅田地区にある豊田館跡。清原清衡が平泉に進出するまで館を構えたと伝承され、社と説明版に挟まれた豊田城址(じょうし)碑(市指定文化財)には「清衡の父経清時代からの城であった」と刻まれている

 真衡、あっけない最期

 ささいなきっかけで勃発(ぼっぱつ)した清原一族の内紛。戦火は広がり、後三年合戦(1083−87年)として日本史上に記録された。

 戦いの経過を記した「奥州後三年記」に触れておく。

 後白河法皇(1127−92年)が、1171(承安元)年に描かせた合戦絵巻が根本。現存していない。

 絵巻を基に、比叡山の僧玄慧(げんえ)が制作、画工飛騨守(ひだのかみ)惟久(これひさ)筆で1347(貞和3)年完成したのが絵巻に説明(詞書(ことばがき))を付した「後三年合戦絵詞(えことば)」(東京国立博物館蔵)だ。

 東博所蔵の絵詞は、残念ながら6巻のうち前半3巻を欠いている。

 欠落した部分の詞書の一部が「奥州後三年記」という文書として残った。

 平泉町中尊寺に、この「後三年記」を基にした絵詞模本(江戸時代)が伝わっている。

 ほかに模本はあっても、合戦の発端部を描いたものは国内でこれしかないという。貴重なものだ。

 中尊寺関連展の図録に掲載された絵詞を見ると、実に生々しい。

交通の要衝

S字形に大きく蛇行する北上川へ、張り出した地形の前沢町白鳥舘遺跡(中央)。古代から交通の要衝で、清原清衡が攻めた白鳥村はこの付近にあったとみられる

 惣領へ反旗

 後三年記に従う。

 厨川柵(くりやがわのさく)(盛岡市)で安倍氏を倒した清原一族のなかで惣領(そうりょう)家独裁に対する対立の火種はくすぶっていた。

 とはいえ、開戦は、偶発的といえる。

 陸奥・出羽の実質的な首長だった清原真衡(さねひら)家の婚礼の場で、持参した祝いの品を投げ捨て、出羽に帰った一族の長老吉彦(きみこの)秀武(ひでたけ)討伐に兵を起こしたことは、前回述べた。

 ところで、秀武はじめ、清原氏の出羽(秋田・山形両県)にあった居館は、考古学的に存在がはっきりしたものはない。

 今年5月28日付本紙朝刊に「清原一族の拠点か/秋田市に平安後期の城跡」と報じられた虚空蔵(こくぞう)大台滝(おおだいたき)遺跡が、本格的な遺構を伴った清原氏根拠地の初の発見であろう。

 発見に「秋田県では、清原氏や系列の城が各地にまだ眠っているはず」と新野直吉秋田大名誉教授は、談話を寄せた。

 清原氏に限らない。安倍氏の拠点もまた、ほぼ確実といえるのは鳥海柵(とのみのさく)(金ケ崎町)だけ。

 2003年に発掘され、河崎柵(かわさきのさく)の可能性が高かった擬定地遺跡(川崎村=連載11回で既報)は、保存論議が出ることもなく寂しく消滅した。

 今年5月、衣川村で姿を現した七日市場(なのかいちば)周辺遺跡群は、安倍氏の時代にさかのぼる。重要な遺構だ。大切に考えていきたい。

 再び合戦をなぞる。

 戦を覚悟していた秀武は、清原清衡(後の平泉藤原氏初代)と家衡に決起を促す。「真衡に家来扱いされ満足か」と。

 清衡は、真衡の父武貞(たけさだ)に再嫁した安倍頼時(よりとき)娘の連れ子、家衡は武貞と清衡の母との間に生まれた。真衡と家衡は異母兄弟、清衡と家衡は異父兄弟だ。

 清衡と家衡は、真衡に不満があったのだろう。秀武に呼応した。

 留守を急襲

 真衡が留守の居館に、清衡軍は迫る。途中「伊沢の郡白鳥の村」の在家400余を焼き払った。

 真衡居館は、鎮守府(水沢市)から安倍氏の本拠地だった衣川までの間。それも白鳥村に極めて近かったとみられる。

 白鳥村は5月、国史跡への追加指定が答申された前沢町白鳥舘(しろとりたて)周辺のこと。古代、往来する役人に駅馬を提供する駅家(うまや)があった。以後も交通の要衝だった。

 白鳥村を攻めた清衡の館はどこか。平泉へ拠点を移すまで居を構えた豊田館(とよだのたち)(江刺市)が、既に清衡の本拠になっていた、とみるのが相当だろう。

 清衡軍襲撃−との急報に、真衡はきびすを返す。清衡・家衡も戦を避け、兵を引く。

 そうこうするうち1083(永保3)年秋、陸奥守として源義家(よしいえ)が急遽(きゅうきょ)着任した。

 父頼義(よりよし)が河内源氏の覇権を奥羽に築こうとして果たせず、義家も無念の思いのまま離れたのが金、鉄、馬が豊かなこの地。河内源氏の名誉をとどろかせ、富を掌中にしようとの決心があった。

 俘囚(ふしゅう)長・真衡は、新国守・義家をもてなす「三日(みっか)厨(くりや)」のため、国府(宮城県多賀城市周辺)に参上した。

 「日ごとに上馬50匹、金、(鷲(わし)の)羽、あざらし、絹布のたぐい数知らず献上した」と後三年記は記す。

 三日厨の期間中、義家は、内紛解決のための戦を黙認したようだ。

 なぜなら真衡は、再び奥六郡へ戻り、敵である秀武討伐へ出羽へ向かったからだ。今回は、居館の防備も固め出陣した。

 留守を清衡・家衡は再攻撃。戦いとなった。

 その時突然「真衡、出羽へ発向の路中に、病に侵され頓死(とんし)し了(おわ)んぬ」。あっけない最期だった。


 語る みちのくの遺産  えさし郷土文化館館長 千葉俊一さん

   覇権のルーツ江刺に

「藤原の郷は建物を再現するばかりではなく、戦乱を経て平和を願った奥州藤原氏の精神を伝えている」と語る千葉俊一さん=えさし郷土文化館

 −開設13年目を迎えた「えさし藤原の郷(さと)」の今年の入場者は。

 源義経ブームで7月までに昨年1年間に匹敵する12万人に達した。今年は30万人近くに達すると予想している。NHK大河ドラマ「炎(ほむら)立つ」のロケに使われた政庁正殿や藤原秀衡の居館・伽羅(きゃら)の御所などに加え、大河ドラマ「義経」のロケに合わせて京都「堀川の御所」や「安宅の関」などを新設。来場者から好評だ。

 −平泉文化と江刺のかかわりを。

 江刺は清衡の父経清が居館を構え、後三年合戦で奥六郡を伝領した清衡は、平泉に進出するまで江刺郡豊田館を置いたとされる。北上川の東側には慈覚大師創建と伝えられる古寺が20以上もあり、その中心の極楽寺は国分寺に次ぐ官立寺院として平安仏教の拠点だった。旧稲瀬村の国見山廃寺跡には大伽藍(がらん)があったとされ、江刺はいわば平泉文化のルーツと言える。

 −「紺紙金銀字交書一切経」と江刺については。

 経巻の奥書に「於奥州江刺郡益沢院内書之畢 大檀主藤原清衡 北方平氏」とあり、清衡公が江刺の益沢院で書写させたことを物語る。益沢院は、藤原の郷のある増沢盆地の中心部に当たり、周辺の経塚からは愛知県渥美産の経壺(きょうつぼ)も出土している。いわゆる「清衡経」は5390巻が8年がかりで写経されたが、豊臣秀吉の時代に中尊寺経藏から持ち出され、現在はその8割に当たる約4300巻が高野山(和歌山県)の宝物庫に眠っている。平泉の世界文化遺産登録が実現したあかつきにはぜひ、経巻を返してもらいたいと強く願っている。

(聞き手は一関支社 小笠原裕)

文・学芸部 中村紀顕  写真・一関支社 高橋照雄



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