O後三年合戦@ 2005年7月27日


居城の伝承

清原真人武則の居城があったと伝承される秋田県増田町の真人公園。古代の陸奥国府多賀城(宮城県多賀城市)と出羽の秋田城(秋田市)を結ぶ線上に位置する。真人山(後方)を中心に公園が整備されている

 惣領家への不満爆発

 奥六郡の俘囚(ふしゅう)(朝廷に服属した蝦夷)長・安倍氏が滅んだ前九年合戦(1051−62年)の論功行賞は、出羽の俘囚長・清原真人(まひと)武則(たけのり)に破格なほど手厚かった。軍記陸奥話記によると、一気に従五位下鎮守府将軍に任ぜられた。

 奥州藤原史料(東北大東北文化研究会編著、1959年)の表では再任者も数え、40数人目にして在地俘囚長が、初めて鎮守府将軍となった。

 それまで、官軍最高指揮官で陸奥(むつの)守(かみ)・鎮守府将軍だった源頼義(よりよし)でさえ正四位下とはいえ伊予守(愛媛)。武則の叙位は、頼義長男義家(よしいえ)と同じで、しかも出羽守となった義家より、軍事指揮権は格上だった。

 義家は、伊予に赴く父に孝養を尽くしたいと出羽守辞職を申し出た。武則の風下に立つのが我慢ならなかったのだろう。

アヤメ咲く

鎮守府八幡宮南側の道路は、かつての胆沢城北外郭線に重なる。北外郭線南側に、約3万株のアヤメを植栽した「あやめ苑」が整備された。毎年6月下旬から7月上旬に咲き、訪れた人の目を楽しませる(7月2日撮影)

 武則の天下

 朝廷は、安倍氏追討の殊勲者が清原氏であると、明確に認識していた。

 武則は、出羽山北(せんぼく)(横手盆地)主から、鎮守府(水沢市)へ進出し、奥六郡主を兼ねた。

 武則の、山北での根拠地は秋田県増田町・真人山(まとやま)(390・7メートル)、という伝承がある。

 江戸時代の紀行家菅江(すがえ)真澄(ますみ)(1754−1829年)の地誌「雪の出羽路 平鹿郡」に、<−増田なる真戸山は真人山にて−清原真人武則の居城跡なりつるよしを云(い)ひ−>とあり、この記述が根拠とされる。

 伝承の虚実は、問うまい。

 JR奥羽本線十文字駅から国道342号を東へ。真人山の西すそには、リンゴ畑に囲まれて真人公園が整備されている。名誉町民の歌手並木路子さんと「リンゴの唄(うた)」を顕彰する記念碑があり、桜の名所として名高い。

 清原氏には、武則息子の武貞(たけさだ)に、奥六郡主安倍氏の血脈を伝える頼時(よりとき)娘が、子の清衡(きよひら)を連れ再嫁しており、奥六郡支配の正当性も備えていた。

 清原氏は、時代を経るごとに強権を持つ。

 近年の研究で、前九年合戦勝利に加え、清原氏隆盛の大きな転機として、後の延久二年合戦が注目されてきた。

 1070(延久2)年、陸奥守源頼俊(よりとし)は、清原貞衡(さだひら)とともに軍を起こし、衣曽(えぞの)別嶋(わけしま)(北海道)や閉伊七村(岩手県沿岸)を攻めた。

 出兵の間に陸奥国印が盗まれたり、盗んだ者を当時下野(しもつけ)守(栃木)の源義家が捕えるなど複雑、不可解な事態が続く。

 結果として貞衡だけが軍功を認められ、清原氏2人目の鎮守府将軍に任命された。

 こうした経緯は、頼俊の戦果上奏文でわかる。

歴史息づく

鎮守府胆沢城(水沢市)の鬼門(東北隅)に鎮座する鎮守府八幡宮。縁起は延暦20(801)年、征夷(せいい)大将軍坂上田村麻呂創建と伝わる。俘囚初の鎮守府将軍となった清原真人武則の時代はどういう社であったのか

 清原氏の支配体制は、延久合戦後、北奥羽にまで及び、地元の小勢力首長間の小競り合いは沈静化。その結果、堀で囲まれたり、高地につくられた「囲郭集落・高地性集落・防御性集落」と考古学界で呼ばれる拠点は消滅していった、とみる研究者は多い。

 清原貞衡という人物は、長く「真衡(さねひら)の誤記か」(奥州藤原史料ほか)−とされ「貞衡=真衡」が定説に近かった。例えば入間田宣夫東北大名誉教授も、この立場で多くの著作がある。

 これに対し樋口知志岩手大助教授は「貞衡は真衡と別人である」(「秋田市史第一巻」2004年)とし、傍証を挙げる。

 今後の研究が、注視され、興味深い分野だ。

 後三年合戦は、鎮守府将軍清原武則の孫で、武貞の息子真衡(?−1083年)が推し進めた嫡流への権力集中主義と、それに対する同族内の不満が火種となった。

 以下、戦いを記した「奥州後三年記」(群書類従ほか所収)を基本史料とする。

 我慢も限界

 1083(永保3)年、奥六郡の清原真衡居館で、養子・海道小太郎成衡(なりひら)に嫁をめとる婚礼が行われていた。

 清原惣領(そうりょう)家の慶事に、出羽の吉彦(きみこの)秀武(ひでたけ)も砂金を朱の盤上にささげ持ち、庭に侍していた。

 秀武は、前九年合戦の安倍攻めで、第三陣を束ねた武将。しかも真衡祖父武則の母方の甥(おい)で、武則の婿。一族の長老だった。

 惣領の真衡は、護持僧奈良法師と囲碁にふけり、控える秀武に目もくれない。

 我慢も、疲労とともに限界となった。「一門に対し情けなく腹立たしい仕打ち」と秀武は、金をいきなり庭に投げ散らし、甲冑(かっちゅう)を付け郎党ともども出羽に帰った。

 ようやく碁を打ち終えた真衡は、秀武が帰ったと聞き、激怒する。

 惣領家以外の一門一族を、家来として扱おうとする真衡に対する公然とした謀反だったからだ。

 真衡は、たちまち諸郡の兵を召集して軍勢を整え、出羽へ進軍する。

 後三年合戦の始まりである。


 語る みちのくの遺産  岩手銀行頭取 永野 勝美さん

   平和思想、景観後世に

「平泉の往時の姿をそのままに守り伝えてきた先人に感謝したい」と語る永野勝美頭取=岩手銀行本店

 −今年の春の藤原まつり・源義経公東下り行列で藤原秀衡公に扮(ふん)した感想を。

 東下り行列は10年ほど前の金売り吉次役に次いで二度目。毛越寺で滝沢秀明さん扮する義経公と再会し、手を握り合う場面でふと芝居心を起こして義経公を抱き寄せたら女性の観客から「キャー」と大ブーイング(笑)。滝沢さんは義経公にぴったりのさわやかな好青年だった。

 −平泉文化についてどう感じているか。

 ある都市工学の権威によると、当時の京都の人口は約16万人。一方の平泉は約15万人とされ、優れた農業生産力や土木技術を持ち、馬や刀、金や絹に代表される高い軍事力、経済力を持っていた。しかし藤原3代は決して他を侵すことなく、みちのくの平和な暮らしを願った。初代藤原清衡公の中尊寺供養願文には、鳥獣草木を含めて奥羽の戦乱によってたおれた朝廷、蝦夷の戦没者をはじめ、むなしく死んだ命すべてを浄土に導く願いが込められている。その思想こそ世界に伝えるべきメッセージだと思う。

 −世界文化遺産登録に向けた経済界の取り組みはどうか。

 現在、県商工会議所連合会の斎藤育夫会長を委員長とする平泉世界遺産本登録推進委員会が企業や県民に呼びかけて募金活動に取り組んでいる。岩手には国立公園が二つあり、世界文化遺産が加われば大変な観光資源となる。岩手を中心とした北東北3県の観光開発をどう進めていくか、3県の経済同友会の方々とも話し合っている。戦後の近代化はある意味で自然破壊を繰り返してきたが、その中で国立公園や平泉を守り通してきた先人の努力には頭が下がる思い。われわれもきちんとした形で後世に伝えたい。

(聞き手は一関支社 小笠原裕)

文・学芸部 中村紀顕  写真・一関支社 高橋照雄



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