N金と鉄と馬 2005年6月22日


馬コの系譜

「南部外山は山中なれど 駒コかうなら外山に−」などと民謡「外山節」にも歌われた玉山村のいわゆる外山牧場。正式には県農業研究センター畜産研究所外山畜産研究室といい、今も藪川中の東南に広がる草地で、馬が放牧される。蝦夷の馬から続く馬産地の伝統を継ぐともいえる

 貢馬の伝統 後世にも

 古代、鉄は文明の利器だった。

 生活の優れた道具で、農耕を支えた。同時に蝦夷(えみし)の時代以降、身を守る武具に不可欠となった。

 蝦夷の刀といわれる蕨手刀(わらびてとう)など、出土直後の古代の鉄剣を、目の前で見たのは山田町房の沢(ぼうさわ)W遺跡が初めてだった。

 標高60メートルの尾根上にある同遺跡で古墳群が見つかり、最終的に刀剣類43点の出土を取材した1996年10月24日のこと。

 足下(そっか)の古墳から目を転じると、快晴の山田湾が一望できた。

 蝦夷の刀は、調査事務所前の、机の上にあった。こぶのようにさびが付着し上から蕨手刀、直刀、立鼓刀(りゅうことう)2振りの計4振りが並んでいた。

 土に埋もれ

 7世紀後半から8世紀、房の沢の「海の蝦夷」は、刀だけでなく、貴重な資料を残していた。

 「馬」だ。

 古墳群から、轡(くつわ)を中心とする15点の鉄製馬具。4基の馬の墓には、歯を主体に4頭分の骨が埋まっていた。

 98年発行の調査報告書は「骨から推定される馬は、中型日本在来馬(体高127−137センチ、体重280キロ前後)の範囲に含まれる」としている。

 鉄と、俊足の馬とともに古墳に眠っていた蝦夷。

 海陸をかけ、潮の香をまとった彼らは、強力な権力を掌握していた。古墳築造が証拠といえる。

 古墳群の存在は、遺跡尾根のすそ野で96年5月、3振りの蕨手刀が偶然見つかったことでわかった。

 付近の平地に遺構はなかった。「尾根の土が崩れ、埋もれていた刀が落ちたのではないか?」

 関係者の予想が当たり、知られていなかった古墳群が姿を現した。

 当時の埋文センター調査課長・小田野哲憲(てつのり)さん(2004年7月、在職中に57歳で逝去)の指揮で、調査は進んだ。

 馬と刀が見つかった当の遺構は、記録保存後消滅した。が、出土遺物228点は、今年4月1日付岩手県報に県教委告示され、県指定文化財となった。

 小田野さんの尽力と房の沢の威容を、埋文の人々が忘れることはない。

かつて房の沢W遺跡のあったところに2002年、三陸縦貫自動車道山田道が開通した。が、山田北小を経て山田湾への遠望は変わらず、遺跡出土遺物は県指定文化財として永遠の評価を得た

永遠の眺め

鉄製馬具、蕨手刀など出土遺物が一括して県指定文化財になった山田町房の沢W遺跡。出土当時、古墳主体部(中央の掘り込み)とともに、馬の墓穴も見つかり、海の蝦夷の権力をみせつけた=1996年10月24日

 話を馬に戻す。

 房の沢のように、古代の馬の痕跡が岩手で見つかるのはまれだ。

 鉄と同様、馬は利器だった。同時に権力の象徴でもあった。

 馬が大陸から本格的に日本に入ってきたのは、5世紀といわれる。

 馬形の埴輪

 胆沢町角塚(つのづか)古墳(5世紀後半、国史跡)は、日本列島最北端の前方後円墳。古墳に伴い、馬形埴輪(はにわ)の一部があった。

 馬の存在と、馬形埴輪をつくる畿内の技術とのかかわりがうかがえる。

 角塚から北西約2キロの水沢市佐倉河に、角塚古墳造営を担った集落とみられる中半入(なかはんにゅう)遺跡がある。98年からの2カ年調査で、3頭分の馬の歯が出土した。

 調査報告書(02年発行)は「5世紀後半から6世紀初頭に属し、東北では最古、全国でも古い時代の馬。日本在来馬のなかでは(宮崎県の)ミサキウマ程度の小型馬」とし▽集落で馬を生産していた▽馬の遺体下アゴ骨だけを(祭祀(さいし)目的で)搬入した−と、複数の可能性を示唆している。

 蝦夷の馬が文献に初めて記録されたのは、718(養老2)年のこと。史書「扶桑略記(ふそうりゃっき)」に、出羽と渡嶋(おしま)(北海道南部)の蝦夷が馬を朝廷に献上した、とある。

 以後、駿馬(しゅんめ)としてだけでなく、蝦夷騎馬軍の精兵ぶりを示す記述にも馬は登場し、律令(りつりょう)政府軍の対応ぶりが記された。

 蝦夷馬の貢馬(くめ)は、平泉藤原氏の時代にも伝統として残った。

 ◇        ◇

 金と鉄と馬−。古代蝦夷を考えるとき、欠かせない3つのキーワードの、ほんのうわべをここまでなぞった。実態はなかなか明らかにならない。

 岩手県立博物館は、開館10周年の90年に「北の鉄文化」、20周年の2000年には「北の馬文化」をテーマに特別企画展を開催した。

 全国の資料が並び壮観だった。それでも古代東北の鉄と馬は、未解明の部分が多いと感じた。

 渡来系技術者がはっきりかかわった産金。製鉄と馬飼いにも渡来系の影響をうかがえる。

 記録に散見されながら、蝦夷にとって金、鉄、馬とはなんだったのか。

 中央の評価に見合うだけの幸を、蝦夷社会にもたらしたのか? あるいは災いのもとになっただけだったのか。

 多くの問いがある。

 ただ、平泉藤原氏の興隆は、金と鉄と馬がなければあり得なかったということは間違いない。

 その意味で、金と鉄と馬は、存在そのものが偉大だった。


 語る みちのくの遺産  八戸市縄文学習館館長 小林 和彦さん

   駿馬の実態迫りたい

「文献を考古学的に裏付けて糠部の駿馬の実態に迫りたい」と語る小林和彦さん=八戸市縄文学習館

−平泉とのかかわりを。

 平泉町の志羅山(しらやま)遺跡(12世紀)から発掘された馬の骨を鑑定した。大溝の跡の湿地のあちこちから見つかり、ほとんどは歯が1−2個だったが、1カ所だけ頭蓋(ずがい)骨を含むほぼ1個体分の骨が出土した。四肢骨から推定される体高は136・3センチと129・1センチ。当時のわが国の馬のサイズは体高108−122センチを小型馬、127−137センチを中型馬としており、その時代とすれば大きい方だといえる。

 −当時の馬はどのような役割、価値を担っていたのか。

 古代律令国家において馬は軍事はもちろん、通信・連絡手段として重要な役割を果たし、財物として高い価値があった。「吾妻鏡」には藤原基衡が都の仏師「雲慶」に贈った産物の中に「糠部(ぬかのぶ)の駿馬(しゅんめ)」の記述が見える。南北朝期成立の「源平盛衰記」には、平安時代末の宇治川の先陣争いで有名な名馬「生●(いけずき)」、「磨墨(するすみ)」が陸奥七戸立(だて)(産)、三戸立と読める記載があるが、馬産地としてみちのくブランドが確立されるのは室町時代になってからだと思う。

 −馬淵川流域をはじめとするいわゆる糠部の馬産はいつごろから始まったのか。

 古代においては甲州(山梨県)や信州(長野県)の馬産が知られていたが、馬淵川流域地域には奈良・平安期の資料が乏しく、考古学的には解明されていない部分が多い。2002年に県道工事に伴う発掘調査で、八戸市尻内のJR八戸駅北の林の前遺跡から平安期とみられる馬の骨がまとまって出土した。平安期の馬飼いの解明に大きな手がかりになると期待している。文献に出てくるようなものを考古学的に裏付けながら、今後も糠部の駿馬の実態に迫りたい。

※●=口へんに妾

(聞き手は一関支社 小笠原裕)

文・学芸部 中村紀顕  写真・一関支社 高橋照雄



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