M金と鉄と馬 2005年5月25日


銘刀を祈願

一関市舞川の延喜式内社・舞草神社。舞草鍛冶遺跡の上方に鎮座する。刀鍛冶が銘刀を鍛えたいと祈願したところ、鍛造に適したわき水の所在をお告げで示した−との伝説が残る

 強さ支えた奥州鍛冶

 平泉町の中尊寺大長寿院に、一振りの刀が伝わる。普段は、同寺讃衡蔵(さんこうぞう)で収蔵する。

 同町・達谷(たっこくの)窟(いわや)を本拠にした蝦夷(えみし)の総帥・悪路王(あくろおう)の佩刀(はいとう)、と伝承された逸品だ。

 坂上田村麻呂(758−811年)が悪路王を討ち、達谷窟に京都清水寺を模して毘沙門(びしゃもん)堂を創建した由来は、先に触れた(連載7回)。

 長さ66センチ。柄頭が早蕨(さわらび)状に渦巻く蕨手(わらびて)刀(とう)と呼ばれる品。切っ先は欠けて、ない。茶褐色の刀身の一部分を研磨し輝きがこぼれる。平安時代前期の光。まばゆい。

 刀身と共造りの柄の真ん中に、撃剣時の衝撃を逃すよう毛抜きの形に透かし彫りがある。

 刃は、かすかに反る。柄も刀身の棟側に傾き、反りと同じ効果を持つ。突くより、切ることを目的にしたのは明らかだ。

 古代、刀は直刀だった。奈良から平安時代になって、伝悪呂王佩用・毛抜(けぬき)形透(すかし)蕨手刀のように、蕨手刀には反りのあるものが現れた。

 反りの誕生をもって、蕨手刀は、日本刀の「祖」の一翼を担う栄光に浴した。

 武具の進歩

 これまで全国で出土した蕨手刀は、285振り(今年4月末、盛岡市教委・八木光則さん調べ)。大半が北海道を含む東北で、単独では岩手が26%と、最も多い。

 蝦夷の刀ともいわれるゆえんが、ここにある。

 毛抜き形透かしのある太刀は、朝廷警護の役所「衛府(えふ)」の武官も腰に帯びた。衛府(えふの)太刀は「俘囚(ふしゅうの)野剱(のだち)」とも呼ばれた、と記録に残る。

 朝廷に服属した蝦夷の呼称「俘囚」を冠する太刀が、貴顕の人々をひそかに守っていた。

 俘囚の刀奥州刀の優秀さを示す話といえよう。

 阿弖流為(あてるい)ら蝦夷の戦い、安倍氏の前九年合戦。以後も平泉藤原氏が統べるまで、奥州は幾多の戦をくぐり抜けた。

 律令政府との自衛戦は、刀をはじめとする在地の武具の進歩を促した。奥州の鍛冶(かじ)が、戦乱のなか、蝦夷の強さの基盤だったといえる。

 奥州鍛冶は「雄安(たけやす)」ら幾人かが、刀剣古伝書に名をとどめた。

 奥州刀工が鍛えたなかで、最も知られたのが舞草(もくさ)刀。日本刀の一流派として名高い。

 舞草刀発祥の地は、一関市舞川。「舞草鍛冶遺跡」の標識が立つ。

 延喜式内社・舞草神社、次いで観音山(325・2メートル)へ続く山道から下った斜面にある標柱は、ほっそりとしていた。

 確実な遺構の発見はなかったが、1967年、製鉄をうかがわせる鉄のかす(鉄滓(てっさい))が近くで見つかった。

 上り東北新幹線が、一ノ関駅に差し掛かる少し前、トンネルに入る。暗転した乗客の頭上が観音山。いわば舞草鍛冶遺跡の基層を、現代人はくぐり抜けている。

 平安時代の舞草刀は「−ではないか」との前提つきで数点あるだけ。謎多い刀だ。

 舞草刀を主要テーマに、1997年開館した一関市博物館の研究で、謎は明かされるはずだ。

 銘刀を鍛える前段として、素材の鉄と、その生産は不可欠といえる。

 三陸の製鉄

 今、岩手で最も古いとされる製鉄跡は、山田町上村(かみむら)遺跡の8世紀後半。奈良時代のことだ。

 ただし、確定−とはいかない。

 92年の発掘調査で、炉跡が見つかり、製鉄遺跡なのは間違いない。時代は、鉄滓などの捨て場で出土した土師器(はじき)片の年代観で特定した。

 しかし、土師器片が鉄滓と同時代ではなく、他の時代の混入物といわれれば、否定し難い。

 東北に視野を広げれば、国府多賀城(宮城県多賀城市)に鉄製品を供給した柏木遺跡(同)が、8世紀初め。そこから上村遺跡(8世紀後半)へ技術が伝わった、と考えると、年代的・経路的にはつじつまが合う。

 が、製鉄技術、なかでも炉への送風方法が決定的に違う−と岩手県文化振興事業団埋蔵文化財センターの佐々木清文調査二課長はいう。

 足踏み式ふいごの多賀城とは違う送風法、つまり、律令国家の官営技術とは異なる製鉄を、上村遺跡の人々は行った。

 近年、海の蝦夷のダイナミックな交流が注目される。遺物に北と南、多様な地域からの品々が交じっていたことがわかってきたのだ。

 三陸の製鉄技術は、独自のものか、あるいはどこからか影響を受けたものだろうか。

 いえるのは、沿岸を中心とした古代製鉄が、蝦夷から安倍、藤原へと、富と権力を支え続けた。

 みちのくの栄枯盛衰を、真っ赤に燃える製鉄の火を見るように、製鉄技術者は見続けたはずだ。


 語る みちのくの遺産  花巻市博物館館長 梅原 廉(きよし)さん

   全国の名刀工に比肩

「舞草鍛冶は平泉文化を陰で支える存在だった」とその重要性を語る梅原廉さん=花巻市博物館

 −平泉にとって舞草鍛冶(かじ)はどのような存在だったのか。

 藤原3代によって築かれた平泉文化は、都の影響を受けながらも、わが国唯一の「紺紙金銀字交書一切経」に見られるように、常に最高のものを追究する考え方があった。それは刀に代表される武力においても例外ではなかったろう。優れた武器を持つのは相手から踏み込まれないためであり、平泉文化を守ることでもあった。舞草は豊かな砂鉄、水、燃料に恵まれた地であり、地理的に見ても舞草鍛冶は安倍、藤原両氏の抱え工であったことは間違いない。

 −奥州鍛冶は文献ではどう記されているか。

 「陸奥話記」には1062(康平5)年の厨川の戦いで安倍貞任が空堀の底に白刃を林立させて源氏の侵攻を防いだと記され、かなりの数の刀工が抱えられていたことをうかがわせる。1423(応永30)年に書写された刀剣古伝書「観智院(かんちいん)本(ぼん)銘尽(めいづくし)」では鎌倉期までの名刀工42人の中に奥州鍛冶は幡房(もうふさ)ら8人の名を挙げられており、全国の名刀工に比肩する存在であったことを物語っている。

 −今後の研究課題は。

 舞草刀研究で最大の障壁は肝心の平泉文化華やかな平安時代の在銘確実な太刀が伝世していない点。平泉の場合は源頼朝によって刀狩りが行われた事情もあるが、在銘の刀で伝世しているのは鎌倉時代以降だ。古刀はすり上げられて無銘となっていることも多い。これまでは肉眼の鑑定が中心だったが、今後は鉄の成分分析などによる新たな発見を期待したい。

(聞き手は一関支社 小笠原裕)

文・学芸部 中村紀顕  写真・一関支社 高橋照雄




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