L金と鉄と馬 2005年4月25日


慶事を今に

日本初の産金地とされる宮城県涌谷町の黄金山神社。社殿手前右手には大伴家持の産金を祝う万葉歌が刻字された歌碑が建つ。国史跡を含む一帯は今、見事に整備された

 陸奥の産金 力の源泉

 1062(康平5)年9月17日に勝敗が決した前九年合戦の、余話をたどる。

 終戦翌年の2月16日、敗死した安倍貞任(さだとう)、藤原経清(つねきよ)、安倍重任(しげとう)の首級が都へ運ばれた。

 途中、貞任の首を持参する従者は「くしはないだろうか?」と官軍使者に尋ねる。

 「髪を整えたいならおまえのくしを使え」。そっけない答えがあった。

 従者は、くしを取り出した。自らが使うのではなかった。旧主の髪に当て嗚咽(おえつ)した。「仰ぎ見ること高い天のような貞任様の髪を、今自分の汚いくしですくとは…。悲しみ耐え難い」と。

 軽輩ながら従者の忠節に、聞いていた周りの人々は落涙した、と軍記・陸奥(むつ)話記(わき)は記す。

 わが国の梅

 一方、降伏し都に連行された安倍宗任(むねとう)に、殿上人の1人が梅の花を突き出し「宗任、これを何と見る」と問いただす。

 風流を解さない蝦夷(えみし)め。見下す意識があからさまだった。

 宗任は「わが国の梅の花とは見たれども大宮人はいかがいうらん」と即答する。

 「わが国」とは、奥六郡のことだ。

 からかうつもりの貴人が逆に皮肉られ、すごすご帰っていった−と「平家物語巻十一」にある。

 宗任は、歌心ある風雅の人だった。

 以上、安倍氏の文化の高さを示す逸話を述べた。

 安倍氏は、粗野ではなかった。北との交易を束ねていた。陸奥守(むつのかみ)とその家来に金宝を贈ることができた。力の源泉には陸奥の産金があった。

 陸奥産金の歴史は古い。1250年以上さかのぼる。

 奈良東大寺。見上げる盧舎那(るしゃな)大仏が鎮護国家の象徴として座す。この奈良の大仏は、聖武(しょうむ)天皇が743(天平15)年、造立の詔を発した。

 だが、仏を飾る黄金がどうにも足りなかった。

 その時奇跡が起きた。

 749(同21)年、陸奥国が黄金(砂金)を初めて貢いできた。その量900両(約34キロ)。

 陸奥守百済王(くだらのこにきし)敬福(きょうふく)が献上した。

 大仏開眼へ前進した。

 喜びの天皇

 天皇は、年号を「天平感宝」と改元。喜びをあらわにした。

 日本初の産金地は、現在の宮城県涌谷町、黄金山(こがねやま)神社(国史跡)境内だったとされる。

 同神社は「延喜式(えんぎしき)」にも載る。

 産金の慶事を、天皇はただちに全国に伝えた。

 万葉歌人として知られる大伴(おおともの)家持(やかもち)は当時、越中守(富山県)だった。たちまち「陸奥国(みちのくのくに)より金(くがね)を出(いだ)せる詔書(みことのり)を賀(ことほ)ぐ歌」と、反歌を詠んだ。

 <天皇(すめろき)の御代栄えむと東(あづま)なる陸奥山(みちのくやま)に金花咲く>(原文は万葉仮名)

輝く寺院跡

輝く朝日を浴びる衣川村長者原(ちょうじゃがはら)廃寺跡。長く金売り吉次屋敷跡と伝承されてきたが、近年の発掘調査で、平泉藤原氏に先行する安倍氏の時代の寺院跡だったことがわかってきた

 黄金山神社参道を進むと右手に今、丈高い家持の歌碑が建っている。

 同神社境内遺跡は、東北大の伊東信雄教授(1908−87年)の指導で57年、発掘された。

 調査メンバーのなかに同大大学院生だった現一関市博物館館長の伊藤玄三法政大名誉教授(東京都練馬区在住)もいた。

 11月、寒かったそうだ。社殿東南側を掘ると古い瓦が見つかり始めた。

 伊藤さんは、その時の写真のコピーを見せてくれた。瓦片は直線状に塊となって出土していた。

 社殿の礎石が、柱より大きかった。礎石にふさわしい別の建物がかつてあったらしい。

 社殿北西を流れる小川で、近くの人たちが前に見つけた古瓦に「天平」の文字が刻字されていたこともわかった。

 産金の功で陸奥守敬福ほか私度(しど)沙弥(しゃみ)(民間の僧)、神主らが位階を受けた−と続日本記(しょくにほんぎ)は記す。

 伊藤さんは「産金を記念し、この地にお堂が建てられた。古瓦はその堂のもの。後に別な所にあった神社が堂跡に移転し、今の黄金山神社になったとも考えられる」といった。

 聞くほど確かに、この地で産金があった天平の風景が浮かぶ。

 陸奥は、金の産地として羨望(せんぼう)の目で見られた。

 後の世のこと。源義経が初めて奥州へ下ったとき、吉次(きちじ)という者が手引きした、と室町初期の軍記・義経記(ぎけいき)は伝える。

 吉次は「京から奥州に下る金商人だった」ともある。

 岩手、宮城、京都など吉次屋敷跡は各地に伝承されている。

 陸奥話記著者の可能性が高い藤原明衡(あきひら)の著「新猿楽記」に、俘囚(ふしゅう)の地までも交易する商人・八郎(はちろうの)真人(まひと)が登場する。吉次が実在したかどうかは別にして、砂金を携え往来する商人の姿がうかがえる。

 増長、羨望、嫉妬(しっと)−。陸奥で初めて産出して以来、金の輝きは実に、さまざまな欲望を生んだ。


 語る みちのくの遺産  奈良・東大寺別当 森本 公誠(こうせい)さん

   心の闇に光差す思い

「みちのくの金がもたらした感激はいかばかりだったか」と聖武天皇の心境を推し量る森本公誠別当=奈良市・東大寺本坊寺務所

 −聖武天皇はなぜ大仏造立を発願したのか。

 聖武天皇が即位したのは大宝律令制定後4半世紀を経て、次第にその矛盾が露呈しつつあった時代。論語や史記などの「経史(けいし)」を学んだ天皇は人々を法律でしばるだけではなく、慈愛のこもった政治を目指した。ところが天平4(732)年以降、地震や飢饉(ききん)などの天災が続発。「天災をはじめとする民の苦しみは自分1人に責任がある」という思いの下、仏法の力で天地を鎮め、人心を安定させようとした。これが国分寺、国分尼寺の建立、大仏造立へとつながった。

 −みちのくの金はどういう影響をもたらしたのか。

 造像は最初、紫香楽(滋賀県信楽町)の甲賀寺で始められたが、その道のりは険しかった。反対する政治勢力に加え、天平17(745)年には美濃国に大地震が発生。当時の災異思想からすれば天地自然までもが計画を否定していると受け取られた。しかし、聖武天皇の決意は固く、平城還都とともに大和国金光明寺(現東大寺)の寺域内で工事を再開。本体工事は順調に進められたが、悩みは鍍金(ときん)(金メッキ)用の金。鍍金を目前にしてもたらされた産金の知らせは聖武天皇にとって天地自然が初めて自分の意思にこたえてくれたようで、心の闇が光に転じた思いだったろう。みちのくの金のもたらした意味は大きい。

 −東大寺を初めとする「古都奈良の文化財」は1998年に世界文化遺産に登録されている。同じく登録を目指す平泉にアドバイスを。

 奈良が文化財指定を受けたのも人々が一生懸命に支え、守り育ててきたおかげ。平泉は国家の関与を受けずに独自の仏教文化を花開かせた。その精神をこそ伝えていかなければならない。

(聞き手は一関支社 小笠原裕)

文・学芸部 中村紀顕  写真・一関支社 高橋照雄




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