K前九年合戦D 2005年3月24日


柵所在地は

安倍貞任ら一族最期の厨川柵と伝承されてきた地の一つ、盛岡市安倍館遺跡。発掘では安倍氏の時代ではなく、中世居城跡だった。今、保育園と八幡の社が建つ。柵の本当の所在地は未解明だ

 安倍氏の血、途絶えず

 安倍貞任(さだとう)、藤原経清(つねきよ)ら安倍一族は、厨川・嫗戸(うばと)両柵(さく)(盛岡市)に籠城(ろうじょう)した。

 攻める陸奥守(むつのかみ)源頼義(よりよし)ら源氏・清原氏連合軍(官軍)は、1062(康平5)年9月15日午後6時、柵を厳重に囲む。

 2柵の距離は900メートル弱。西北に大きな沢、二方向は川に面し、岸の高さは3丈(約9メートル)あった。

 安倍軍は柵に櫓(やぐら)を構え、川と柵の間に空堀を、底には刀を逆さに立てた。周囲に敵兵を傷つけるため鉄片をまいた。

 前九年合戦を記した軍記・陸奥話記(むつわき)の以上の記述で、両柵の位置がおぼろげながら推測できる。

 同市文化財シリーズ「前九年の役」(1993年、同市教委)で、著者の故草間俊一岩手大名誉教授は▽川が北上川なら、川と柵の間に空堀がある地形は安倍館ではなく天昌寺付近▽雫石川であれば河岸3丈に合致する安倍館も否定できない−とし、「いずれ、雫石川が北上川に注ぐ北側の厨川台地の先端部分に厨川柵があった」と記す。

 つまり盛岡市安倍館と天昌寺付近だ。伝承も残る。

 ところが、それ以上絞り込む手がかりはない。

 筆者も93年、歴史紀行の連載で安倍館、天昌寺周辺を歩いた。草間さんら考古・歴史研究者にも取材した。が、両柵の位置特定まで調査が進んでいないことを知った。

 その事情は、12年後の今も変わりはない。

 所在地不明は、前九年合戦研究に、画竜点睛(てんせい)を欠く。やむをえないことか。

中世の津軽安東氏が船を連ねたという市浦村十三湖に、交易拠点の名残はない。海とつながる汽水湖は、シジミ漁が盛んだ
交易の覇者
安倍貞任の遺児・高星丸が祖といわれる津軽安東氏は、青森県市浦村十三湖(十三湊)を拠点に、中世海上交易の覇者だった。夕焼けに彩られる湖水戸(みと)口から日本海へ。交易船の勇姿は想像のほかない

 奮戦の貞任

 厨川の戦いは、1062年9月16日午前6時、官軍の総攻撃で開戦した。

 官軍は、終日攻めた。結果は矢や石の的になり、死者数百人。

 しかし、難攻不落のとりでは、後の世界戦史をみてもまず、ありえない。

 厨川・嫗戸の柵も例外ではなかった。

 17日午後2時、官軍の火攻めで安倍軍の守りは崩れる。柵の中にいた男女数千人は「潰乱(かいらん)す」。

 混乱のなか、勇猛、決死の安倍軍将兵は突撃した。清原軍の将・武則(たけのり)は包囲の一部を解かせた。

 死を覚悟しながら一瞬、生への望みが見えたことで安倍の将兵は気が緩み討たれてしまった。

 経清は生け捕りにされる。かつての主人源頼義の怒りにまかせた命令で、鈍刀で首を切られる。苦痛を長引かせるための処刑法だった。

 奮戦の貞任も、ついに刺される。大楯(たて)にのせ、6人がかりで担ぎ頼義の前に横たえられた。

 貞任は、身の丈1・8メートル以上で「容貌魁偉(ようぼうかいい)」、堂々とした武人だった。

 最後に頼義をしっかりと見すえ、没した。

 陸奥話記は安倍側の「名のある死者」として安倍重任(しげとう)、けなげに奮戦した貞任長男千世童子(ちよどうじ)(13)、入水した安倍則任(のりとう)妻子らを挙げている。

 安倍頼時(よりとき)娘で経清の妻と、その子で7歳の清衡(きよひら)は、目の前で身内が死ぬのを見た。地獄だった。

 安倍氏は滅ぶ。前九年合戦は終わった。

 大義なき戦

 この戦いで、陸奥守の大義は乏しかった。

 金・駿馬(しゅんめ)といった奥六郡の財宝と、安倍氏掌握の北方交易によるアシカ、アザラシの皮などの珍宝(延喜式=967年施行=陸奥交易雑物に北方産物として一部がみえる)を、頼義が手に入れるための私戦に等しい。

 宝を望みながら頼義は、目的を果たせなかった。

 武家の棟梁(とうりょう)である頼義でさえ、独力で奥六郡を鎮圧できず、出羽俘囚(ふしゅう)(服属した蝦夷(えみし))の長・清原氏の加勢を得た。

 奥羽の覇権は源氏ではなく、安倍氏から清原氏へ移った。だが、俘囚長の手から離れなかった。

 といって、頼義にも益はあった。

 合戦を通じ、主従のきずなは強まり、武家政権の種が播(ま)かれた。

 そのことは貴族主導できた日本史を、豊かなものにした。

 一方、敵将清原武貞(たけさだ)(武則息子)に再嫁した頼時娘と息子清衡は生きた。安倍氏の血統は、奥六郡で途絶えなかった。

 六郡外には降伏し1064(康平7)年、伊予(愛媛県)に配流された安倍宗任(むねとう)がいた。

 後、大宰府に移った彼の後裔(こうえい)は九州北西部・松浦党に、娘は平泉藤原氏二代基衡妻になる(吾妻鏡)。

 六郡を逃れた貞任の遺児高星(たかあき)は、青森十三湊(市浦村)に覇を唱える津軽安東氏の始祖になったという(続群書類従巻百七十藤崎系図)。

 安倍氏の武勇と誉れは、輝きをもって後世へと伝わった。


 語る みちのくの遺産  岩手県南史談会長 大島 英介さん

   埋蔵文化財の周知を

「文化財の巡回展は東北の県庁所在地と札幌市から福岡市まで全国の主要都市で開催したい」と提言する大島英介さん=一関市内の自宅

 −平泉を初めて訪れたのは、いつか。

 私は新潟県長岡市出身で、東京高等師範学校(現筑波大)で歴史と地学を専攻した。1941(昭和16)年秋、研修旅行で、初めて平泉を訪れた。当時、学生たちは、東北というと真っ先に平泉を思い浮かべたものだった。金色堂を間近に見て歴史の重みを感じ、毛越寺の浄土庭園では伸びやかな気持ちになったことを思い出す。

 −その後、平泉に通うようになって、どのような印象を刻んだか。

 教師として一関一高に着任し、史学部を創設して生徒たちとよく中尊寺、毛越寺に行った。私は近世史を対象とし、平泉は研究分野ではなかったが、無量光院跡の発掘も生徒と一緒に手伝ったものだ。毛越寺に1人で出かけたときは、草の上に寝転んだ。とがめる人もなく、精神的な憩いの場となってくれた。

 −平泉の世界遺産登録に向け、課題は何か。

 これまでの世界遺産は厳島神社(広島県)や姫路城(兵庫県)のようにいずれも視覚に訴えてくる。しかし、平泉の場合は、多くが埋蔵文化財として地中に眠っている。世界の人々にこの文化の価値を知らせることが大切になる。

 −広く周知を図るためには、何が必要だと考えるか。

 しっかりした資料に基づき無量光院、柳之御所などの復元図を学問的価値あるものとして作成し、図録にして大勢の人々に配ることが有効だろう。中尊寺、毛越寺の文化財巡回展を全国の主要都市で開くことができれば理想だ。シンポジウムは、海外からも研究者を招いて国際的な規模にする必要がある。これまでは県内での運動が多かったが、今後は全国へ、世界へと活動を広げてほしい。

(聞き手は一関支社 達下雅一)

文・学芸部 中村紀顕  写真・一関支社 高橋照雄




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