J前九年合戦C 2005年2月26日

   

河崎柵跡か
川崎村薄衣の北上大橋から北西に眺望した北上川。この上流部は川幅が最も狭くなる。右手の道路を遮断するような堀が2003年、発掘調査で見つかった。安倍氏十二柵の一つ、河崎柵の可能性が指摘されている

 激戦の渦中に連歌

 安倍貞任(さだとう)は、よほどの人物だったに違いない。

 奥六郡主の父頼時(よりとき)は、源頼義(よりよし)の官軍を相手に前九年合戦を戦い、1057(天喜5)年、陣没した。

 首領の死は、組織に致命傷となる。しかし、安倍軍は乱れなかった。

 指揮を引き継いだ貞任が傑物で統率に優れていた、とみるべきだろう。

 頼時の死に乗じ、勝利を得ようと頼義は出陣。対する貞任も河崎柵(かわさきのさく)(川崎村)に進出した。

 河崎柵の事を述べたい。

 2003年同村川崎で、所在のわかっていなかった河崎柵らしき遺構が、こつぜんと現れた。

 県文化振興事業団埋蔵文化財センターの発掘調査で見つかったのは幅4・5メートル、深さ1・2メートルの堀。北上川と、その北東側の針山(はりやま)までの間を南北に約60メートル延びていた。

 出土した素焼きの土器「かわらけ」から、堀の年代は前九年合戦と同じ11世紀半ばごろ。しかもかわらけが安倍氏十二柵のうち、存在が確実視される鳥海(とのみ)柵(金ケ崎町)出土品と似ていた。

 発掘を主導した同センターの羽柴直人さんは「時代の一致、敵軍の交通を遮断する堀、前から擬定地とされてきた点を合わせれば、河崎柵の可能性は高い」という。

 成果は、平泉文化研究年報(04年、県教委)にも高らかに記された。

 われわれは、安倍氏の柵研究の、新たな地平に立ちつつある。

 話を戻す。

 朝廷の困惑

 対峙(たいじ)した安倍4000、頼義1800の両軍は1057年11月、黄海(きのみ)(藤沢町)で激突した。

 風雪はなはだしく、官軍は兵糧尽き、人馬疲弊。しかも多勢に無勢。戦死数百人(陸奥話記(むつわき))と、頼義軍は大敗した。

 頼義は、長男(八幡太郎)義家(よしいえ)を含めわずか七騎でかろうじて包囲を逃れた。

 七騎落ちを知らない頼義の諸将は、武士の誇りを見せた。

 頼義将軍は死んだはずだ。どうして自分だけが生き永らえようか、と死地に突入。あるいは将軍の亡きがらを見つけ弔おうと戦地をさまよい、多くは討たれた。

 主君に殉じる。後の武士道が、日本史上明確に出現した。

 黄海の戦いの翌12月、安倍軍の知将で、平泉藤原氏初代清衡の父経清(つねきよ)は、数百の鎧(よろい)武者を率い衣川を出る。

 諸郡に「白符(経清の指示書)に従え、赤符(朱の国印を押した公文書)には従うな」と告げ、徴税を始める。

 国の権威の徴税権を、思うさま踏みにじられても、敗軍の陸奥守(むつのかみ)頼義は傍観するよりなかった。

 屈辱だった。源氏の宿意(果たされぬ恨み)が生まれる。

 安倍氏をこのままにしておいては、武家の棟梁(とうりょう)として、武威は廃れる−。頼義は焦った。

 独断で雄勝、平鹿、山本の出羽山北(せんぼく)三郡俘囚(ふしゅう)主・清原光頼(きよはらみつより)と弟武則(たけのり)に辞を低くし珍宝を贈り、援軍の約束を取り付けた。

 1062(康平5)年春、頼義の2度目の任期が切れた。が、居座る。

 着任した新国守は、人民が自分より頼義に従うのを見て自信を失い、帰る。朝廷は紛糾する。

 朝廷の困惑をよそに、清原武則は同年7月、万余の兵を率い陸奥に到着。8月、清原勢主体の7陣が編成された。

 源氏・清原連合軍は同17日、安倍宗任軍の小松柵を撃破、9月5日、雌雄を決すべく、黒鎧ぞろえの兵8000で攻めかかった貞任と衝突した。

 武則は「安倍軍敗れたり。籠城(ろうじょう)戦法を恐れていたが、打って出てくるとは願ってもない」と頼義の勝利を予測した。

両雄の岩塊
安倍貞任と源義家が連歌を交わしたという衣川村古戸の一首坂周辺。雪遊びを楽しむ近くの幼稚園児の手前に、義家石と名付けられた武張った岩塊がある。奥の説明板手前に、雪をかぶった貞任石がみえる

 激闘6時間

 武則の読み通り正午から激闘6時間、ついに安倍軍は崩れた。

 5日石坂、6日衣川・業近(なりちか)、7日大麻生野(おおあそうの)・瀬原、11日鳥海、14日までの黒沢尻・鶴脛(つるはぎ)・比与鳥(ひよどり)と安倍氏の柵は次々抜かれた。

 新渡戸稲造が名著「武士道」で、源義家と貞任をたたえた故事が生まれたのは、この時のこと。

 鎌倉期の説話集古今著聞集の「源義家、衣川にて安倍貞任と連歌の事」で後世に伝えられた。

 衣川から厨川(盛岡)目指し退却する貞任に、追う義家は「卑怯(ひきょう)にも逃げるか。引き返せ。言いたい事がある」と叫ぶ。

 貞任は振り返った。

 「衣のたてはほころびにけり」と義家。

 「年をへし糸のみだれのくるしさに」と貞任は付けた。

 「激戦の渦中に風雅な振る舞い」(古今著聞集)、「合戦は−知的競技でもあった」(武士道)と評された。

 戦は天王山を迎える。

 貞任初め安倍軍の将兵は、厨川・嫗戸(うばと)の両柵を最後の決戦場と定め、まなじりを決した。


 語る みちのくの遺産  映画監督 羽田 澄子さん

   三代の息遣い現在に

「周囲の景観は変わっても、平泉の本質はずっと変わっていない」と魅力を語る羽田澄子さん=東京都・桜丘区民センター

 −平泉を訪れるようになったきっかけは何か。

 岩波書店発行の「岩波写真文庫」で平泉を取り上げることになり、岩波映画製作所にいた私とライターの妹、それにカメラマンの3人で訪れた。1952年4月のことです。道路は未舗装で、民家はポツリポツリと点在するだけ。雪はないし、緑もまだもえていない。「ここには、何があるんだろう」というのが最初の印象でした。

 −取材が始まってからはどうか。

 一関市の旅館から1週間、中尊寺や毛越寺に通い、藤原三代の歴史と当時の情緒のようなものを感じるようになった。日本人初の「ライフ」のカメラマンで、私たちの編集長だった名取洋之助さんが「平泉はいいぞー」と語っていた意味が分かった。今も藤原三代の空気が地域全体を覆っているような気がする。平泉って不思議な所ですね。

 −映画撮影でも平泉に足を運んでいるが。

 私は中国・大連市生まれで、寒い地方に行くと故郷に戻ったような気持ちになる。映画「早池峰の賦」撮影では夫が運転する車で東京から大迫町まで走り、帰途、中尊寺に寄った。わが子・牛若丸に会いに行く常盤御前の悲話(絵巻)を映画化した「山中常盤(やまなかときわ)」は、平泉の北上川を撮影して作品が完成。私が話題にするためか、若いスタッフたちもロケのたびに「平泉へ行こう」と足を延ばしています。

 −世界遺産登録に向けて何が求められるか。

 各国の世界遺産は、建造物や地形など形が残されている。平泉には、金色堂など貴重な遺産はあるが、建造物がほとんど残っていない。それにもかかわらず、この土地に立つと、空間から平泉三代の文化の息遣いが感じられる。そういう感動を全く次元の違う形で伝える表現方法の工夫が大切になると思います。

(聞き手は一関支社 達下雅一)

文・学芸部 中村紀顕  写真・一関支社 高橋照雄




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