I前九年合戦B 2005年1月26日

   

ここで陣没
安倍頼時の三男宗任が守っていた鳥海柵跡(金ケ崎町西根)。数多い安倍氏の柵のなかで場所がわかっている数少ない所だ。今も空堀の跡が標柱右手に残る。この地に戻り頼時は死去したと記される

 同族の矢に父倒れる

 前九年合戦は複雑な経過をたどる。

 安倍貞任(さだとう)が部下を襲った。罰するから引き渡せ−という源頼義(よりよし)の言い分に、奥六郡を支配する貞任の父頼時(よりとき)は憤った。

 ぬれぎぬなうえ、卑しい蝦夷(えみし)の仕業との言いがかりが許せなかった。

 天喜4(1056)年、衣川の関を閉ざし、頼義に公然と反旗を翻した。

 頼時の不運

 頼義が、陸奥守(むつのかみ)だったのが頼時の不運だった。

 頼義と配下の坂東武者は「安倍氏を倒し駿馬(しゅんめ)、金宝をわが物にできる」と勇み立つ。

 「雲のごとく集まり雨のごとくに来る。歩騎数万」(陸奥話記(むつわき))が衣川へ押し寄せた。

 同年は、頼時の娘と婿・藤原経清(つねきよ)の子で、後の奥州藤原氏初代となる清衡(きよひら)誕生の年でもある。

 経清は、天慶3(940)年に平将門(まさかど)の乱を鎮定した藤原秀郷(ひでさと)の子孫。

 後三年合戦(1083−87年)を記した奥州後三年記(上)に「清衡はわたり(亘理)権太夫(ごんのだいぶ)経清が子なり」とあり、宮城県亘理郡を本拠とする官人が経清だった。

 藤原氏の氏寺で、今は阿修羅像の公開で知られる奈良興福寺が、1046年焼亡した。一門は費用を集め、再建する。

 復興を記した「造興福寺記」の造営料割当者名簿に「経清 六奥(むつ)」と名前が残る。れっきとした藤原一門だった。

 亘理の経清が割り当てに応えるには、奥六郡の金宝が欠かせなかった。

 経清、安倍接近の理由は、ここにあったともいわれる。

 もっとも六郡の司・安倍氏が女婿に、と見込んだ人物。経清はただ者ではなかったはずだ。

 頼義軍には経清と、宮城県伊具郡に本拠を置く平永衡(ながひら)も参陣していた。永衡もまた頼時の娘を妻にしていた。舅(しゅうと)に背いた形になるが、官人である以上やむを得ない。

 頼義軍は開戦前につまずいた。進軍中、軍紀に乱れが出たのだ。

 原因は、頼義の疑い深い性格にあった。

 頼義に「永衡がかぶった銀の冑(かぶと)は、安倍軍から射られないための目印で、内通している」と真偽不明の告げ口があった。

雪の古戦場
父安倍頼時の後を継いだ二男貞任が、源頼義軍と会戦するため陣を敷いたと伝えられる藤沢町黄海の熊館(くまだて=標高約101メートル)を望む。黄海の合戦のとき、この地は風雪激しかったという

 頼義は永衡を斬(き)る。

 頼時女婿という同じ立場の経清は、永衡斬殺(ざんさつ)を自分の行く末に重ねた。

 頼義への不信が広がった。

 経清は、安倍軍が頼義らの妻子がいる国府(宮城県多賀城市)を突く、との流言を広めた。軍は乱れた。すかさず陣を離れ安倍軍へ合流した。

 天喜4年頼義の任期は切れた。朝廷が任命した新しい陸奥守は、戦闘を嫌い辞退した。

 頼義は、思惑通りに再任した。が、凶作・飢饉(ききん)で軍事行動をとれないまま、日を送った。翌天喜5年、頼義は国解(こくげ)(公文書)でその後の戦況を朝廷に報告した。

 「臣下の金為時(ためとき)(気仙郡司)らを奥地の俘囚(ふしゅう)につかわし、官軍側として挙兵するよう説得した。安倍富忠(とみただ)を首領に●屋(かなや)・仁戸呂志(にとろし)・宇曽利(うそり)の夷人が官軍に味方し立つ」

 「それを聞いた頼時が、俘囚同士争うことの無益を説こうと出陣。富忠は待ち伏せし激闘2日、頼時は流れ矢に当たり、鳥海柵(とのみのさく)に帰って死んだ」

 気仙の金為時、奥六郡よりさらに北の俘囚・安倍富忠。頼時の敵対勢力がいた。蝦夷といっても一枚岩ではなかった。

 安倍富忠とは何者なのか。昨年12月1日、本紙に興味深い報道が載った。八戸市の林(はやし)ノ前(まえ)遺跡(10世紀後半−11世紀)から兵庫県社町以外では見つかったことのない刀の金具が出土した。

 銀ぱくを施した銅製。竹の節をかたどった凹凸。京好みの造作だ。

 青森県埋蔵文化財センターの三浦圭介副参事は「中央とのつながりを持つ有力な蝦夷居館の可能性が強い。安倍富忠の系譜かもしれない」と語った。

 富忠一族がおぼろげながら輪郭を現してきた。

 あだ討ちへ

 話を合戦に戻す。

 頼時は、息子や一族の主立った人物を要所の12の柵に配置し、防御を固めていた。

 宗任が守る鳥海柵(金ケ崎町)は、発掘で存在がほぼ確認された2柵のうちの一つ。現地に立つと、柵を示す標柱の東西に空堀が今も見える。

 この柵で頼時は陣没。安倍軍の指揮は貞任が引き継いだ。

 天喜5年11月(今の12月)、頼義は1800人を率い国府を立つ。

 貞任も4000人を率い味方の河崎(かわさき)柵(川崎村)へ進出し、黄海(きのみ)(藤沢町)で会戦を狙う。頼時の弔い合戦だった。

●=施の方が金


 語る みちのくの遺産  毛越寺貫主 南洞頼教さん

   浄土庭園先人の労苦

「大泉が池の中島にかかる橋の復元も、代々の願望の一つだったようだ」と先人たちの思いをしのぶ南洞頼教貫主=毛越寺庭園

 −平泉文化の世界遺産登録が近づいている。思い起こすのは何か。

 先人たちが遺産を伝えるため大変な苦労を払ってきたことだ。今は浄土庭園をほぼ完全な姿で残す毛越寺だが、明治時代までは私有地が点在し境内としてまとまっていなかった。多くの人々の理解で私有地は寄付され、本堂建設の悲願もかなえられた。

 −大泉が池の調査ではいろいろな逸話が生まれたようだが。

 平安時代の庭づくりは書物「作庭記」が手本となっている。大泉が池は同書通りの造りで研究者を驚かせた。また、東京大名誉教授だった藤島亥治郎氏(2002年7月、103歳で死去)は、庭園に遣(や)り水の遺構があるはずだと推測しながら池の周囲を調査したことがある。後に調査地点のすぐ近くに遣り水の落ち口があったことが分かり「あと1メートル調べていれば、私が遣り水を発見できたのに」と非常に残念がっていたのを思い出す。

 −延年舞は絶えることなく継承されてきた。

 1597(慶長2)年に常行堂が焼失し、すべての堂が消えたことがある。それでも延年舞が伝わったのは、僧侶たちがどこかでけいこを続けてきたためだろう。努力は並大抵ではなかったはずだ。少子化で子役の確保が難しいが、町の人々と一緒に守っていく。

 −世界遺産登録で、地元は何を求められるか。

 海外から多くの人々が訪れるだろう。平泉をしっかり説明できるようになることが大切だ。平泉文化は、初代清衡公の中尊寺建立供養願文に見られる平和希求を大精神として100年続いた。その思想を誇りとし、大勢の人々を平泉に迎えたい。

(聞き手は一関支社 達下雅一)

文・学芸部 中村紀顕  写真・一関支社 高橋照雄




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