@清衡の平和思想 今も 2004年4月26日

 清衡(きよひら)、基衡(もとひら)、秀衡(ひでひら)、泰衡(やすひら)。11ー12世紀、奥州藤原四代は、政庁から、あるいは居館から平泉の街を100年間見つめた。

 平泉町上空から北西を望む。毛越寺、観自在王院跡の大池と庭園で構成された景観。王城の地を意識した園池こそ平泉の文化遺産を特徴づけるものだ=高度約600メートル、本社チャーター機から

 往時の面影を残す街並みを、815年後の私たちも目にしている。

 平泉を鳥瞰(ちょうかん)した。

 高度600メートル付近から北西を望む。遠く残雪の焼石連峰がかすんでいた。南西へ延びる現代の大動脈東北自動車道が、収斂(しゅうれん)するかのような平泉トンネルの右に、基衡建立という毛越寺庭園・大泉が池が眺望できる。

 並んで見える幾何学模様の園池は、基衡妻建立の観自在王院跡・舞鶴が池。

 青緑に光る浄土庭園の園池は、平泉文化の象徴だ。

 ◇奇跡の発掘

 高度を下げ東に目を転じる。岩手町を源流に、宮城県の河口まで注ぐ北上川が南北を分断するかのように横たわる。豊かな水は蛇行し、豊饒(ほうじょう)と水害をもたらしてきた。

 高館橋の上流手前側には、主に三代秀衡の政庁・平泉館(ひらいずみのたち)跡、いわゆる柳之御所遺跡が見えた。水害で消滅したと考えられてきたのが、1988年からの発掘でこつぜんとよみがえった。

 奇跡に県民は感動した。

 早朝、中尊寺金色堂へと向かう一山の僧侶。杉木立が天にそびえ、厳かな空間となっている

 1051年に戦端を開いた前9年、続く後3年の両合戦は奥羽に荒廃をもたらした。一方で戦いのなかから、蝦夷(えみし)の血を引く清衡の登場をうながし、奥羽の統一を可能にした。

 中尊寺、金色堂、平泉館、毛越寺、無量光院と伽藍(がらん)・政庁・居館が一世紀の間、槌(つち)音とともに姿を現した。

 すべての根本になったのは鎮護国家と浄土建設、冤霊(えんれい)の救済を目指す清衡の「平和の思想」だった。

 今も2種類の写本が残る「中尊寺供養願文(がんもん)」(1126年)に、その精神は、あますところなく記されている。

 四代続いた平泉の世紀は、源平争乱にうながされるように1189年、落日を迎えた。北方の王者・三代秀衡が擁護した源義経が災厄を招いたかに見える。

 だが、本当のところは武者の世の道筋をつけ、幕府を開いて日本統一を果たそうとした義経の異母兄・頼朝と、彼が抱いていた東北経営に対する源氏の宿意(望みながら果たされぬ恨み)によるものだった。

 1192年鎌倉幕府が成立する。歴史の必然だったのだろうか。

 藤原秀衡の政庁・平泉館とされる柳之御所遺跡の一本桜。「聞きもせずたはしね山の桜ばな吉野の外にかかるべしとは」と西行法師が詠んだ束稲山は、右手の北上川を挟んで対岸にある

 平泉にとって幸いだったのは、清衡の平和の思想が頼朝に、そして後の支配者、たとえば仙台藩・伊達家にも敬意を持って迎えられたことにある。

 手厚く守られながらも堂塔・僧坊は焼亡した。が、金色堂は残った。

 同時に、奥羽の中心地が他の地域に移ったことによって平泉の遺構・遺物は、かき乱されることなく地中に残され、文化遺産となった。

 ◇壮大な実験

 平泉の文化遺産、なかでも毛越寺跡、無量光院跡、中尊寺境内、柳之御所遺跡、金鶏山を核心地域とした史跡が2008年度、世界遺産への本登録を目指している。

 史跡を基にした申請は、既に登録された「沖縄・琉球王国のグスク(城)及び関連遺産群」に続く。

 考古学的発掘成果を基にした史跡で−というのは平泉が初めてのことだ。

 東北学の第一人者・高橋富雄東北大名誉教授は盛岡大学長当時、平泉の歴史を「蝦夷といわれた東北人の浄土づくりという壮大な歴史の実験」と評した。

 考古学に軸足をおき、世界遺産を目指すことは、今また例のない「壮大な歴史の実験」に挑んでいるともいえる。

 1689年、松尾芭蕉は「おくの細道」の旅をした。5月13日晴れた日、平泉にたどり着く。

 「三代の栄耀(えよう)一睡の中(うち)にして、大門の跡は一里こなたにあり」と印象を記し、<夏草や兵(つわもの)どもが夢の跡>との名吟を残した。

 われわれもまた、「栄耀(えいよう)の記憶」をたどりながら平泉、岩手、東北はもちろんのこと、全国に残る奥州藤原氏関連の歴史・史跡・遺物・伝承を訪ねていこう。

 そこから世界遺産へと向かう道筋が確かなものになり、清衡の平和思想が明らかになることを信じながら…。

文・学芸部 中村紀顕  写真・一関支社 高橋照雄




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