9.爾薩体村と幣伊村
「戸」は弊伊に由来か

 坂上田村麻呂が胆沢城や志波城を築いた後も、朝廷はさらに北方に軍を進め、爾薩体(にさったい)村と幣伊(へい)村を攻撃する計画を持っていた。しかし、朝廷にはもはや蝦夷(えみし)との全面的な戦いを続ける力はなく、大規模な政府軍の編成は断念せざるを得なかったのである。そこで、弘仁2(811)年には、陸奥・出羽両国の兵士2万6000人を動員して爾薩体村と幣伊村を攻めることを計画したが、大規模な作戦は実現せず、出羽(でわの)守(かみ)大伴今人が俘囚(ふしゅう)300余人をひきいて爾薩体を攻撃した。雪をついてのこの作戦では、60余人を殺戮(さつりく)したという。

 八戸の周辺

 また、陸奥・出羽両国の俘軍(帰順した蝦夷からなる軍隊)それぞれ1000人を吉弥侯部(きみこべの)於夜志閇(おやしへ)(吉弥侯部は蝦夷の有力者に朝廷が与えた名)に委ね、幣伊村を攻撃する計画もたてられた。

 このような時に、邑良(おら)志閇(しべ)村の吉弥侯部都留岐(つるき)が出羽国に対して「自分たちと爾薩体村の伊加古(いかこ)とは仇敵(きゅうてき)なのだが、今、伊加古らは都母(つも)村に居り、幣伊村をも仲間に誘い、陣容を整えて自分たちを攻撃しようとしている。ついては、兵粮(ひょうろう)の援助があれば、先手をうって相手を襲撃したい」と申し入れた。当時の蝦夷の村は、志波村の例からもわかるように、多くの集落を含む、現在の標準的な郡程度、あるいはそれ以上の広さがある。伊加古や吉弥侯部都留岐は、このような集団のリーダーだった。胆沢の阿弖流為(あてるい)と同じような存在といって良かろう。

 爾薩体村は、二戸市・一戸町一帯であろう。二戸市に仁左平という地名がある。都母村は、青森県上北郡七戸町(旧天間林(てんまばやし)村)の坪(つぼ)に名を残しており、上北地方である。幣伊村、爾薩体村、都母村は隣接していたであろうから、幣伊村は、爾薩体村と都母村の中間の、八戸市とその周辺で、後の上閉伊・下閉伊よりも北である可能性が高い。一戸町御所野(ごしょの)古墳群、八戸市丹後平(たんごたい)古墳群、上北郡おいらせ町阿光坊(あこうぼう)古墳群は、それぞれ爾薩体、幣伊、都母の地域を代表する遺跡である。

 爾薩体村への攻撃を指揮したのが出羽守である。岩手県北・青森県南の地域は出羽国とも関係が深かったのだろう。邑良志閇村は出羽国に兵粮の援助を申し入れてはいるが、あるいは爾薩体村などからあまり離れていないのかもしれない。ほぼ100年前の霊亀元(715)年に陸奥国に対し編戸(へんこ)の民となることを申し出た香河村の族長に、邑良志別(おらしべの)君(きみ)宇蘇弥奈(うそみな)という人物がいる。蝦夷の族長に与えられた君の称号の前にくる語は、地名であることが多い。邑良志閇村との関係を考えて見たいと思う。

 元来は広域

 ところで、清原氏の勢力が飛躍的に北東北にひろがる契機となった延久の合戦(第3回参照)で、作戦の対象となった地域は閉伊7村と衣曾(えぞの)別嶋(べつしま)(下北半島部か)であった。元慶の乱で、同盟を結んで反乱に加わったのは秋田市から北、鹿角地方までの12村であり、閉伊7村のもこれに匹敵するひろがりがあったと思われる。津軽も広域の地名であるが、元慶の乱の史料に「津軽の夷俘は、其の党に種が多い」と記され、弊伊村も「彼の村の俘は、黨類(とうるい)がはなはだ多い」と述べられている。

 幣伊(閉伊)は、もともとは気仙郡以北、青森県にいたる、きわめて広い地域を指す名称であったのではないだろうか。ところが、11・12世紀のころ、幣伊の北部が糠部(ぬかのぶ)の名で呼ばれるようになる。いささか憶説めくが、一戸から九戸までの戸のつく地名は、あるいは「一の(閉伊)」から「九の幣伊(閉伊)」に由来し、その主要部と閉伊7村は重なるのかもしれない。糠部の地域を切り離した幣伊が、中世以降の閉伊なのであろう。

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【注】香河村のことと同じ史料に見える閇(へい)村は、宮古市または山田町付近とされてきたが、これも八戸市付近かもしれない。検討が必要である。

【写真=爾薩体村を代表する遺跡の可能性がある一戸町・御所野古墳群。1990年に古墳(土まんじゅう形)を一時的に復元した。手前は縄文時代の配石墓=一戸町教委提供】


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