8.気仙郡と金氏一族
地勢と婚姻、敵味方に

 枕草子の全国の著名な関を列挙した章段には、衣の関(衣川の関)の名が見える。古代の関は、白河の関が陸奥国と下野国の境にあることからも知られるように、国境に置かれるのが常態である。

 多賀に所属

 平安時代の陸奥国には、多賀国府が直接に管轄する地域と、胆沢鎮守府が管轄する地域とがあり、衣の関は2つの地域の境に位置する。2つの地域はそれぞれ、ほとんど国に準ずる存在だったことがわかる。ただし、このような形になったのは、平安時代中期以後のことである。岩手県内では、気仙郡と磐井郡が多賀国府の管轄域に属していた。

 気仙郡の名前がはじめて歴史書(『日本後紀』)に登場するのは、平安時代初期の810(弘仁元)年10月の条である。その内容は、陸奥国から朝廷に、北海道の人たち200余人が、管轄下にある気仙郡に来着したが、北海道の人々との交渉は陸奥国の所管事項ではないので(出羽国が担当することになっていた)、早々に退去するように求めたところ、季節は冬で、海路は越え難いので、来春まで滞在したいと願っている。どのように処置したら良いだろうか、との報告が寄せられた。

 これに対して朝廷は陸奥国に、彼らが来春まで滞在することを認め、その間の衣食を支給するように、と指示している。

 これは、直接には陸奥国と朝廷との間でかわされた報告と指示であるが、その前段階として、気仙郡の責任者(郡司)と多賀城に居った陸奥国司との間で交わされた報告・指示などがあったにちがいないし、郡の中心としての公的な施設(郡役所)も設けられていたであろう。文字が墨書してある土器が多く発掘された、陸前高田市・小泉遺跡は、気仙郡の郡役所に関係する遺跡であろうといわれている。気仙郡は、奈良時代の末にはすでに存在した可能性が高い。なお、『延喜式』神名帳には気仙郡所在の理訓(りく)許段(こた)神社【注】、登奈(とな)孝志(かし)神社、衣太手(えたて)神社の3社が記載されている。

 前九年の合戦の経過を記す11世紀の史料(『陸奥話記』)には、気仙郡司一族として金(こん)氏の名が見える。安倍氏と戦いを始めてはみたものの、どうしても衣川の関を突破できなかった源頼義は、青森県東部の族長・安倍(あべの)富忠(とみただ)を味方につけ、背後から安倍氏を牽制(けんせい)しようとした。

 安倍富忠を説得するために青森に出向いた源頼義の部下の一人が気仙郡司の金為時(ためとき)である。為時は、前九年の合戦のはじめのころの戦いでも、源頼義がわの武将として奮戦し、一旦(いったん)は源氏に有利な場面を作り出しており、為時に対する源頼義の信頼は厚かったのであろう。

 合戦の原因

 ところが、安倍氏がわの主要メンバーにも多くの金氏一族がいた。厨川の柵の落城にいたる合戦の最終段階で、命を落とした者のなかに金師道(もろみち)、金依方(よりかた)があり、彼らは貞任・宗任の一族であると記されている。帰降した者のなかにも、金為行(ためゆき)、金則行(のりゆき)、金経永(つねなが)がいた。

 気仙郡は多賀国府が直接に管轄する郡であったから、気仙郡司であった金氏は、陸奥守の源頼義の命に従はなければならない立場にあった。しかし一方で、金為行は貞任の舅(しゅうと)だったといい(『十訓抄』)、安倍氏は婚姻関係などを通じて気仙郡のような、奥六郡の範囲を越えた、多賀国府管轄下の地域にも勢力をのばしていたのである。金氏一族は双方の陣営に分裂せざるを得なかった理由はここにあった。

 安倍氏の勢力は磐井郡にも及んでおり、前九年の合戦が始まる以前にすでに安倍氏は、河崎の柵、小松の柵、高梨の宿、石坂の柵などの拠点を築いていた。河崎の柵はほかならぬ金為行が、小松の柵は宗任の叔父の僧良昭が守っていたという。安倍氏が、多賀国府が直接に管轄する地域にも勢力をひろげたことが、多賀国府を刺激し、それが前九年の合戦の原因となってゆくのである。

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【注】理訓許段は、アイヌ語地名研究者、山田秀三氏によればrikun|kotan(高いところにある・村)と解釈できるという。

【写真=前九年合戦の際、安倍側の将・金為行が守ったされる河崎の柵擬定地(一関市川崎町)で見つかった大溝跡=2003年8月】


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