7.胆沢鎮守府と雄勝城
蝦夷に南と西から圧力

 岩手県と秋田県の間には、奥羽山脈の峠を越える多くの道があり、地域間の交流は古くから盛んであった。

 737(天平9)年のこと、陸奥・出羽両国にまたがる大規模な作戦が行われた。作戦を指揮したのは大野東人(おおののあづまひと)である。彼は朝廷による奈良時代前半の対蝦夷(えみし)政策の現地における責任者であった。『続日本紀(しょくにほんぎ)』には、733(天平5)年に出羽柵(でわのさく)を秋田村高清水岡に移したと記されている。出羽柵は、山形県の庄内地方にあったが、それを秋田市の雄物川河口に移転させたのである。これが秋田城のはじまりである。

 しかしこの時期、雄物川中・上流地域にあたる雄勝村にはまだ、朝廷の直接支配が及んでいなかった。そこで大野東人は、秋田城とならぶ出羽北部の蝦夷支配の拠点として、この地域に城柵を築き、移民を導入しようとしたのである。

 族長を派遣

 作戦は、奈良の都から重臣の藤原麻呂(ふじわらのまろ)(藤原鎌足(かまたり)孫)を総責任者としてむかえ、関東地方の諸国から動員した千人の騎兵を含む、数千人の兵士によって行われた。主力部隊は、多賀城から宮城県北部の大崎平野にある色麻(しかま)の柵から峠を越えて山形県に入り、ここで出羽国の兵士と合流した。そしていよいよ雄勝地方に入ろうとしたのであるが、雄勝の人々が政府軍の雄勝村入りを拒否しために成功しなかった。雄勝城が築かれたのは、大野東人の後継者ともいうべき藤原朝☆(あさかり)が東北支配の責任者だった759(天平宝字3)年を待たねばならなかったのである。

 ところで737(天平9)年の作戦の実行にあたっては、広範囲の蝦夷に動揺が及ぶことが予測されていたらしい。そこで海道(かいどう)(太平洋岸)と山道(さんどう)にそれぞれ、蝦夷の有力者が派遣された。作戦が雄勝村以外に及ぶものではないことを言わせたのであろう。

 この時に山道に派遣されたのは、和賀地方の蝦夷の族長「帰服の狄(てき)、和我(わがの)(和賀)君計安塁(きみけあるい)」である。君とは、朝廷が蝦夷の族長に与えた称号である。北上市上江釣子の五条丸(ごじょうまる)・猫谷地(ねこやち)古墳群は、奈良時代のものなので、群中の古墳のどれかは計安塁の墓であるかもしれない。計安塁は「狄」と記されているが、「狄」は出羽がわの蝦夷に用いる語であるから、この段階では和賀地方は陸奥ではなく、出羽と見なされていたことになる。奈良時代の末の史料に、出羽国志波村と表記されているのも、同じことである。

 雄勝城の跡は秋田県大仙市払田(ほった)所在の払田柵遺跡と考えられる(当初の雄勝城は別の地にあったとする説もある)。雄勝城の役割は、普通にいわれるように多賀城と秋田城の中継地、そして雄物川中・上流地域の支配拠点という意味があったことは確かであろうが、それに加えて岩手県地方の蝦夷に対して側面から圧力を加えるという意味もあったのである。

 広がる連携

 こうして、坂上田村麻呂の時に盛岡市以南が、朝廷の直轄支配地となるのである。そして胆沢城が築かれ、それに鎮守府が置かれると、胆沢鎮守府と雄勝城や秋田城は連携を深めていった。9世紀後半に秋田城が焼打ちされた事件(元慶(がんぎょう)の乱)が起きたが、この時に事件を収める役目を命じられた藤原保則(やすのり)は、武勇にすぐれ、東北地方の状況にもくわしい小野春風(おののはるかぜ)を起用することを進言した。その春風が任命されたのは、秋田城や雄勝城の官ではなく、鎮守府将軍であった。春風は、秋田市以北の地域で事件の沈静化にあたっている。

 鎮守府は次第に、出羽国の領域をも含む東北北部全域の拠点として、中心的な役割を担うようになるらしい。このことが、奥六郡の主としての安倍氏・清原氏・平泉藤原氏が広範囲に勢力をふるう伏線となるのである。

 ※☆=けものへんに葛

【写真=北上市の江釣子古墳群猫谷地支群1号墳。古墳群は奈良時代のもので、蝦夷とかかわりの深い蕨手(わらびて)刀が副葬されていた=北上市教委提供】


戻る


Copyright(c)2006, IWATE NIPPO CO.,LTD.
All rights reserved