6.志波郡と岩手郡
胆沢以北を安倍氏再編

 坂上田村麻呂の時代以前にさかのぼり、朝廷がわが北上川中流部における二大強力蝦夷(えみし)集団と認識していたのは、胆沢と志波(紫波)の集団であった。朝廷は、奈良時代後半にはすでに、胆沢と志波を朝廷の直轄支配地に組み入れる政策を定め、以後しばしば遠征軍を送っている。はじめは、どちらかといえば志波地方が政府軍の攻撃の対象となったが、宮城県方面から胆沢を通過して志波に攻め込むことはできなかったから、政府軍は奥羽山脈越えの秋田県がわから出陣することが多かった。

 朝廷がわは、数度に及ぶ戦いの後、ようやく志波の蝦夷を軟化させることに成功し、次には本格的に胆沢を攻めようとした時に、伊治公(これはりのきみ)呰麻呂(あざまろ)(宮城県栗原地方の蝦夷の首領)の乱(780年)が勃発(ぼっぱつ)して多賀城が焼き打ちされるなどのことがあり、坂上田村麻呂が起用され、阿弖流為(あてるい)らにひきいられた胆沢の蝦夷の抵抗をおさえて胆沢城が築かれたのは802年のことである。ついで803年には志波城も置かれ、盛岡市より南の地域が朝廷の直轄支配地に組み入れられることになった。

 洪水の被害

 朝廷の直轄支配に入ると郡が置かれる。9世紀のはじめにはまず胆沢郡と江刺郡が置かれ、811年に和我(和賀)・☆縫(稗貫)・斯波(紫波)の3郡が置かれた。なお、志波城の位置は雫石川の流路に接しており、しばしば洪水の被害があったという。実際に、志波城跡(盛岡市太田)の雫石川に近い部分は、洪水に削り取られて、遺構が残っていない。そこで811年には志波城移転が計画され、間もなく若干規模を縮小して徳丹城(矢巾町)が作られた。

 しかし、10世紀の状況を示す『延喜式』にも『倭名(わみょう)類聚(るいじゅう)抄(しょう)』(源(みなもとの)順(したがう)著。一種の国語辞書で、「国郡部」には国ごとに管轄の郡名が列挙されている)にも、陸奥国の所管の郡としてあげられているのは江刺郡と胆沢郡までであり、和賀・稗貫・紫波郡の名は見えないのである。和賀郡以北の部分に対する朝廷の支配力は、かなり低下したようである。また、発掘調査の結果でも、徳丹城は9世紀のうちに機能を失ったようである。

 ところが、11世紀になると、和賀郡・稗貫郡・紫波郡が復活し、それ以前には郡としての実態も確かではなかった、雫石川以北を領域とする岩手郡までもが出現する。胆沢郡・江刺郡とわが郡から岩手郡までの6つの郡は、まとめて奥六郡といわれ、安倍氏勢力の基盤はこの6郡であったとされている。胆沢郡以北の地域が安倍氏によって再編されたのである。

 厨川が拠点

 安倍氏の最重要拠点のひとつが厨川の柵(さく)(盛岡市)であるが、厨川は岩手郡に属する。興味深いことには、前九年の合戦の後半段階では安倍氏の領袖(りょうしゅう)だった安倍貞任の字(あざな)は厨川次郎という。当時の婚姻形態を考慮すると、貞任の生母は岩手郡の豪族出身だった可能性が高い。事実上、貞任は岩手郡の厨川周辺を拠点としていたのであろう。

 志波城の位置は、雫石川をはさんではいるが、厨川とは至近の距離にある。これは胆沢城と安倍氏のもうひとつの重要拠点であった鳥海(とのみの)柵(さく)(金ケ崎町)の関係とも似ている。志波城は造営からあまり時を置かずに廃されたのであるが、発掘調査の結果では、志波城があったところに、人々が自由に入ってきて、耕地にしたり集落を営んだりした形跡はないという。志波城の故地を大事にして、人々のあり方を規制する、強い力が存在した可能性が高い。それが安倍氏だったのではないだろうか。

 『吾妻鏡』によれば、文治5年奥州合戦の時、源頼朝は9月11日に厨川に着き、翌日にその坤(ひつじさる)(南西)の方角を館と定め、19日に平泉に向かうまで滞在した。このようなことが可能であったのも、平泉藤原氏の時代にも、厨川の柵があったところが、安倍氏由緒の地として記憶され、特別の地とされていたからなのであろう。

※☆=草冠に稗

【写真=坂上田村麻呂によって築城された盛岡市の志波城跡全景。手前の茶色い部分が外郭南辺部で南門、築地塀などが復元されている=盛岡市教委提供】


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