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「平泉への道」連載を終えて
自立した辺境の政権 藤原氏 敦煌(中国)の歴史と類似

 2006年1月から先月まで57回続けた「平泉への道」の連載では、平泉藤原氏の政権を京都の中央政権から半ば自立した辺境地方政権の主(あるじ)と位置づけてみた。世界史上では、中央政権が弱体化すると、辺境地域に辺境の人々の集団が中核となり、中央政権内部や他の地方政権から逃れてきた人々なども加わり、中央政権からは相対的に自立した強力な集団が形成された例は少なくない。平泉藤原氏の政権を、そのような政権のひとつと考えたのである。

 シルクロードの要衝・敦煌(とんこう)がある甘粛(かんしゅく)省西部は、黄河の源流のさらに西に位置し、タクラマカン砂漠など西方世界への通路にあたることから、河西(かせい)回廊といわれる。このあたりは遊牧騎馬民族・匈奴(きょうど)が支配する地域だったが、前漢・武帝の時に、衛青(えいせい)や霍去病(かくきょへい)などの将軍の活躍で漢帝国の領域に属することになった。

 ●大陸版の奥大道

 武帝はこの地域に新たに武威、張掖(ちょうえき)、酒泉、敦煌の河西四郡を置き、内地から移民を送り込んだ。坂上田村麻呂以後に奥六郡が置かれ、移民が導入された状況と対比できる。敦煌郊外に置かれた関所・陽関(ようかん)・玉門関(ぎょくもんかん)は衣の関に比較できるし、河西回廊は奥大道(おくたいどう)の大陸版ということになる。

 大唐帝国の時代、755年に勃発(ぼっぱつ)した安禄山(あんろくざん)・史思明(ししめい)による安史(あんし)の乱によって中央政権は弱体化し、河西地方にはチベット系の吐蕃(とばん)が侵入し、敦煌も吐蕃の支配下に入った。しかし、851年に敦煌出身の張議潮(ちょうぎちょう)が吐蕃を破って唐に帰順し、唐は張議潮を帰義軍(きぎぐん)節度使に任命した。帰義軍節度使は、形式的には唐が任命した地方官であったが、事実上は「河西王国」の王であり、その地位は世襲された。張氏の政権は920年ころに曹議金(そうぎきん)にとって代わられ、曹氏の時代は約100年つづいている。敦煌王の地位は張氏から曹氏へと移動したのであるが、張氏・曹氏を含む有力な一族は長期にわたって頻繁に通婚が行われていた。これは、安倍氏・清原氏・平泉藤原氏の関係を、ひとつの系図にまとめることができることと比較できるだろう。

 歴代の節度使は唐・五代の諸王朝(後梁(こうりょう)・後唐(こうとう)・後晋(こうしん)・後漢(こうかん)・後周(こうしゅう))・宋という中央政権の官制をそのまま用いるなど、その権威を借りながら、いっそうの自立化を進めたといわれている。歴代の節度使は領内や周辺の諸民族に対しては、「大王」を称することも稀(まれ)ではなかった。そして中央政権とは、基本的には租税を納めるのではなく、朝貢関係で結ばれていた。張議潮が帰義軍節度使となって以来、70数年にわって「朝貢を断つことがなかった」と記す文書もある。

 ●中央に産物提供

 節度使が献上した品目の主要なものには、敦煌の地で生産された馬があり、玉(ぎょく)や羚羊(かもしか)の角などの西域との交易で得られたものもあった。これらの点も、清衡が中尊寺落慶供養願文のなかで、自らを「俘囚(ふしゅう)の上頭」(蝦夷(えみし)王)と位置づけながらも、一方で30数年にわたって京都への朝貢を怠らなかったと述べていること、東北で産する馬や金のほかに、アザラシの皮・ワシの羽など、北海道を含む北方世界から得られたものを京都に提供していることと類似する。

 敦煌は、砂漠の大画廊と称される莫高窟(ばっこうくつ)で知られる。張議潮が開いた第一五六窟は、事実上の敦煌王となった張議潮が大部隊を引き連れてのパレードの様子を画(か)いた張議潮出行図(しゅっこうず)があることで知られ、張氏・曹氏の時代には、唐初期に作られた北大仏(第九六窟)の楼閣に大規模な修復を加えている。張氏・曹氏政権はまた、積極的に長安や開封(かいふう)(北宋の都)の仏教界との交流を行い、敦煌に身を寄せた高僧も少なくなかった。張氏・曹氏政権は文化政策として、手厚く仏教を保護したのである。

 莫高窟を中尊寺・毛越寺・無量光院と重ね合わせることもできるのである。

【写真=敦煌郊外から望むキレン山脈。河西回廊はキレン山脈の北麓に点在するオアシスを結んで西域に続いている】

(東北歴史博物館前館長・盛岡市出身、仙台市在住)


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