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57.奥州合戦 藤原氏滅ぶ
「対中央政権」歩みだす

 文治5(1189)年9月10日、志波郡陣岡の蜂杜に逗留(とうりゅう)していた源頼朝の宿に、中尊寺の経蔵別当・心蓮大法師が出頭し、中尊寺は藤原清衡の草創ではあるが、鳥羽院の御(ご)願(がん)の寺院であり、とくに経蔵は金銀泥行交一切経を納めた厳重の霊場であることを申し述べて保護を願い出た。頼朝は心蓮に、清衡・基衡・秀衡三代の間に建立した寺塔の事を尋ね、子細をくわしく注進するように命じた。11日にはあらためて、心蓮大法師以下の平泉諸寺の僧たちが参上し、頼朝は諸寺が勅願であるからには、これを保護することを保障した。

 11日、頼朝は陣岡を発(た)って厨川の柵に到着し、翌日そこを御館と定めている。そこに樋爪太郎俊衡入道が子息の太田冠者師衡・次郎兼衡・河北冠者忠衡と、俊衡の弟、五郎季衡が子息の新田冠者経衡と降(くだ)ってきた。18日には降人となっていた秀衡の四男、本吉冠者高衡を下河辺行平が召し進めた。頼朝は、平泉藤原氏の残党がほぼ獲(と)られたと喜び、康平5(1062)年9月17日に源頼義が安倍貞任等(ら)の頸(くび)を獲たことになぞらえられるとして、子細を京都にも報告している。頼朝の厨川滞在は、前九年の合戦における厨川柵の戦いと日時をあわせたものであった。頼朝はこの度の合戦を、先祖の源頼義や源義家が望んだ、東北地方を源氏の拠点とする夢を、安倍氏・清原氏の子孫・平泉藤原氏を滅亡させることで、子孫である自分が果たし得たと位置づけていたのである。

 ○郎従が挙兵

 頼朝は厨川に7日間逗留し19日に平泉への帰途についた。途中、21日には坂上田村麻呂が勧請(かんじょう)したという胆沢鎮守府の八幡宮に参詣している。頼朝は28日に鎌倉にむけて出発し、10月24日に鎌倉へ帰還している。

 それから2カ月ほどたった12月22日の夜、奥州からの飛脚が、義経と称する者や義仲の子息と称する者が出羽国で兵をあげ、秀衡の子息らも同心して、鎌倉に攻め寄せようとしているとの風聞を伝えてきた。このような動きは程なく、泰衡の郎従、大河(おおかわ)兼任(かねとう)による、第二の奥州合戦ともいうべき事態に展開してゆくことになる。大河兼任は八郎潟東岸を拠点としていた。兼任は嫡子の鶴太郎、次男の於幾(おき)内(ない)次郎と七千余騎を引き連れ、河北・秋田城を経て大関山を越え、多賀の国府に向かおうとしたが、途中の大方(おおがた)(八郎潟)で氷が解け、5000人ほどが溺死(できし)したという。鎌倉では正月8日に、海道の大将軍に千葉常胤、山道の大将軍に比企能員を充てることが決定され、13日には足利義兼が追討使として出発し、奥州に所領がある者にも出動の命令が下された。

 ○防戦の末に

 兼任は秋田郡の地頭・橘公業を男鹿に攻撃してこれを破り、使者を由利維平の許(もと)に送り、昔より親族・夫婦の怨敵(おんてき)に報いるために立ち上がる者はあるが、未(いま)だ主人の敵を討つという例はない。自分はその例を始めるために鎌倉に赴こうというのだ、と申し送った。維平は小鹿嶋大社(男鹿半島の本山か)、毛々左田(秋田市)に馳(は)せ向かって戦ったが維平は討ち取られた。兼任はまた千福(仙北)・山本から反転して北に向かい、津軽に到(いた)って合戦し、奥州合戦の際の出羽方面の総大将であった宇佐美平次以下の御家人を討ち取った。

 大河兼任は進軍の方向を南に向け、ほとんど抵抗を受けないままに出羽の仙北に入り、そこから奥羽山脈を越えて2月上旬には平泉に入り、多賀国府をめざした。2月12日に栗原郡一迫で、両軍が激突した。大河兼任の軍は1万騎ほどであったというが、この戦いで敗れた兼任勢は分散してしまい、兼任は500余騎を率いて平泉の衣川を前にあてて陣を張り、衣川をはさんでの合戦が行われ、兼任勢は北上川を渡って逃亡した。

 その後、兼任は青森の外浜と糠部(ぬかのぶ)の間にある多宇(とう)末井(まいい)の梯(かけはし)の山を城郭として立てこもったという情報があり、足利義兼が馳(か)けつけ、兼任は防戦したがついに敗北し、身を晦(くら)ましてしまった。兼任は、出羽の山北(せんぼく)から山を越えて栗原郡花山に抜けたらしい。そして3月10日、栗原寺に出たところで、錦の脛巾(はばき)(すねあて)を着し、金作(こがねづくり)の太刀を帯びていた兼任は樵夫(しょうふ)(きこり)等に怪しまれ、数10人に囲まれて斧(おの)で討ち殺された。

 こうして、戦いは終わった。鎌倉幕府は、平泉藤原氏の遺産を継承することで、はじめて朝廷の侍大将という枠を超え、京都の中央政権に対する、東日本・北日本を拠点とする地方政権として歩みだすことが可能になったのである。

【写真=大河兼任が通ったという秋田・宮城県境の花山峠を越えたところには、平泉藤原氏の時代の浄土庭園を有する花山寺跡が残っている】

(この企画は今回で終了します)

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