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56.奥州合戦 泰衡の最期
「手柄」の訴えかなわず

 源頼朝は8月12日の夜、多賀の国府に到着し、海道を進んだ千葉常胤・八田知家等(ら)と合流した。藤原泰衡については、玉造郡に居るという情報と、国府の中山の上、物見岡に陣を取っているという情報とがあったので、頼朝自身は多賀国府から黒川郡をへて玉造郡に赴き、小山朝政・下河辺行平等が物見岡に向かってこれを包囲した。しかし泰衡はすでに逃れており、残っていた泰衡の郎従が4・50人ばかりが、朝政・行平等により頸(くび)を取られたり、生(いけ)虜(ど)りにされた。

 8月20日の卯(う)の刻(午前6時ころ)頼朝は玉造郡に到着し、多加(たか)波波(ばば)城を囲んだが、すでに泰衡は逃亡しており、残っていた泰衡の郎従たちは帰降した。8月21日は風雨が強かったが、頼朝は泰衡を追って平泉に向かった。泰衡の郎従は栗原、三迫等の要害で抵抗したが、やはり討ち取られたり生虜りにされた。

 ○豊富な財宝

 泰衡はこの日、平泉館を過ぎたが、頼朝の急追をうけ、自宅の門前を通ったにもかかわらず、暫時の逗留(とうりゅう)もかなわず、わずかに郎従を平泉の館の内に遣わし高屋・宝蔵等に火を放つことができただけであった。頼朝は8月22日の申(さる)の刻(午後4時ころ)雨をついて廃墟(はいきょ)となった平泉館に到着した。平泉館の坤(ひつじさる)(南西)の角にただひとつ倉庫が焼け残っており、頼朝は葛西清重・小栗重成等を遣わして開けさせた。そこには沈(香木)・紫(し)檀(たん)以下の唐木の厨子(ずし)が数脚あり、その中には牛玉・犀(さい)角・象牙の笛・水牛の角・紺瑠璃(るり)等の笏(しゃく)・金の沓(くつ)・玉幡(たまのはた)・玉で飾った金の花(け)鬘(まん)・蜀江(しょくこうの)錦(にしき)の直垂(ひたたれ)・縫っていない帷(かたびら)・金造の鶴・銀造の猫・瑠璃の灯炉、そのほかの財宝が満ち溢(あふ)れていた。そのなかの象牙の笛と縫っていない帷は清重に賜(たまわ)わり、玉幡と金の花鬘は氏寺の荘厳(しょうごん)にしたいと重成が所望して賜ったという。この話は、平泉藤原氏の富は頼朝以下の将士の想像を超えるものであったことを示す話として、しばしば引用される。

 頼朝は飛脚を京都に送って平泉を制圧した旨を報告した。頼朝は泰衡を捜索する軍を各地に派遣し、また8月25日には千葉胤頼を衣河の館に遣わし、泰衡の母の父にあたる前(さき)の民部少輔(しょう)、藤原基成と3人の子息を捕らえた。

 8月26日の日の出のころ、1人の「疋(ひっ)夫(ぷ)」が頼朝のもとに1通の書状を投げ入れて行方をくらました。その表書には「進上鎌倉殿侍所 泰衡敬白」とあり、義経を受け入れたのは父秀衡であり、自分は関知していないこと、頼朝の命のままに義経を討ったのだから、手柄というべきなのに、征伐を受けるのは合点が行かないこと、陸奥(むつ)・出羽両国はすでに頼朝の支配下に入ったのだから、自分を御家人の列に加えてほしいこと、それが駄目なのならば死罪ではなく、遠(おん)流(る)に処してほしいことなどが記されており、ご返報をいただけるならば、比内郡のあたりにお願いしたいとあった。頼朝は、この書面によって泰衡が比内方面にいることを知り、この方面を捜索するように命じている。

 ○郎従の変心

 『吾妻鏡(あづまかがみ)』によれば泰衡は北海道をめざして逃げのびようとし、平泉藤原氏数代の郎従、河田次郎をたよって9月3日に比内郡贄柵(にえのさく)にたどりついた。しかし変心した河田次郎は郎従をして泰衡を囲んで頸を取り、それを頼朝に献上するために頼朝のもとをめざし、9月6日に泰衡の頸を頼朝が滞在していた志波郡陣岡(じんがおか)に持参した。これを受け取った梶原景時は、和田義盛・畠山重忠をして頸実検を加えた上に、さらに囚人となっていた赤田次郎を召して見せたところ、泰衡の頸に間違いないということで、頸は義盛に預けられた。ただし、河田次郎は、功績のように見えるが、譜第の恩を忘れて主人の頸を取るのは許しがたいとして斬罪(ざんざい)に処すことにした。

 同日、頼朝は前九年の合戦時に先祖の源頼義が安倍貞任の頸を獲た時の例にならい、貞任の頸を受け取った横山野大夫経兼の曾孫・横山時広に頸を受け取りを命じ、時広は子息の時兼をして梶原景時から泰衡の頸を受け取った。そして貞任の頸を懸けた郎従惟仲の子孫にあたる七太広綱を召(めし)出し、貞任の時と同じ長さ8寸の鉄釘で頸を懸けさせたという。中尊寺金色堂に伝えられた泰衡のものと考えられる頸には、河田次郎によって斬りつけられた傷跡とともに、額から後頭部に抜ける釘穴が認められるということである。

【写真=紫波町高水寺城跡から望んだ陣岡。源頼朝が陣をしいた地といわれる】


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