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55.奥州合戦 阿津賀志山の戦い
国衡討たれ敗戦色濃く

 文治5(1189)年閏(うるう)4月30日、藤原泰衡は源義経を「衣川館(たち)」に襲った。義経は妻子を殺して自殺し、泰衡は義経の頚(くび)を鎌倉に送っている。その報(しら)せは5月中には京都にも届き、京都ではこれで長い間続いた戦いも一段落するであろうと安堵(あんど)の空気がみなぎった。

 しかし源頼朝は、なおも朝廷に平泉を攻撃する宣旨(せんじ)を求める一方、着々と平泉攻撃の準備を進めた。宣旨がないままの出陣をためらっていた頼朝に対し、兵法の故実を知る古老大庭(おおば)景能(かげよし)は、「軍中では将軍の命令は聞くが、天子の詔(みことのり)は聞かなくとも良い。すでに平泉を攻撃することは朝廷には報告済みであるのだからその返事を聞くことはない。まして泰衡は累代の御家人の遺跡を受け継ぐ者である。罰を加えるのは当然である」、つまり泰衡追討の宣旨がなくとも軍事行動を起こしてもかまわない、と頼朝に進言したという。

 ○2万で迎撃

 平泉攻撃軍は、千葉・茨城を経由し太平洋岸を進む軍、越後から出羽を経由する軍、白河の関を越え福島の中通り地方を進む軍の3軍からなり、頼朝は総大将として中央軍を率い、7月19日に鎌倉を出発した。東海道の大将軍は千葉常胤(つねたね)・八田(はった)知家(ともいえ)で、常陸を経て岩城(いわき)・岩崎を回り、阿武隈川の湊(みなと)を渡って本隊に合流することになっていた。北陸道の大将軍は比企(ひき)能員(よしかず)・宇佐美実政(さねまさ)で、越後国(新潟県)から出羽国の念種(ねずが)関(せき)に出、合戦を遂げるように命じられていた。3軍を合わせた人数は、後に頼朝が志波郡陣岡蜂杜に陣した時には、諸人の郎従等を加えて28万4000騎だったという。

 中央軍は7月29日に白河の関を越え、8月7日に伊達郡国見駅(福島県国見町)に到着した。平泉がわは阿津(あつ)賀志(かし)山に堀を構えて阿武隈川の水を引き入れ、泰衡の異母兄・国衡を大将軍とし、2万騎の軍兵をもって迎撃体制を固めていた。また、刈田(かった)郡にも城郭を構え、名取川と広瀬川には大縄の柵(しがらみ)を設け、国分原(仙台市宮城野原)にも鞭(むち)楯(だて)を構えて泰衡が陣し、多賀国府の物見岡、玉造郡多加波々城、栗原郡三迫(さんのはざま)などにも布陣していた。

 戦いは8月8日から10日にかけて行われた。鎌倉がたは畠山重忠がひきつれてきた疋夫(ひっぷ)80人に、用意していた鋤(すき)鍬(くわ)で土石を運ばせ阿津賀志山の堀を埋めた。平泉がたは金剛別当秀綱が数千騎を率いて阿津賀志山の前に陣をとっていた。8日早朝、頼朝は畠山重忠・小山朝光・加藤次景廉(かげかど)・工藤行光・同祐光等を遣わして箭(や)合わせを始め、午前10時ころには平泉がたは退散し、秀綱は馳(は)せ帰って敗北の由を大将軍国衡に告げた。

 この戦いで奮戦した平泉がたの将士に、佐藤継信・忠信の父、信夫の佐藤の庄司(湯の庄司)佐藤基治(もとはる)(元治)がいた。基治は叔父の河辺高経・伊賀(いが)良目(らめ)高重等とともに、石那(いしな)坂(ざか)(福島市)の上に陣し、堀を掘って阿武隈川の水を引き入れ、柵を引き、石弓を張り、討手(うって)を待っていた。頼朝がたの常陸入道念西(伊達氏の祖)の子息らはひそかに甲冑(かっちゅう)を秣(まぐさ)の中に隠して進み、激戦となったが、ついに庄司以下の主だった者18人が討ち取られ、その頚は阿津賀志山の上の経岡(きょうがおか)にさらされた。継信・忠信兄弟の母は基衡の弟または叔父にあたる清綱の娘だという。

 ○後陣に敵勢

 8月10日早朝、頼朝も阿津賀志山を越え、大軍が木戸口を攻めたが、国衡の軍を破ることは容易ではなかった。これより先、小山朝光、宇都宮朝綱らは、安藤次という者を山案内者とし伊達郡藤田の宿から会津の方へ向かい、土湯、鳥取越を越えて大木戸の上の国衡の後陣の山に登り、鬨(とき)の声をあげ箭を飛ばしたので、国衡らは大いにあわてて逃亡した。泰衡も阿津賀志山の陣が大敗したことを知り、狼狽(ろうばい)して逃亡した。国衡は出羽道を経て大関山に越えようとした。国衡の乗馬は高(たか)楯(だて)黒(ぐろ)という奥州第一の駿馬(しゅんめ)で、大肥満の国衡が毎日3度平泉の高山を馳(は)せ登っても、汗もかかない名馬であったが、大軍に驚き柴田郡大高宮の前のところで、道路を離れて深田に打ち入ったため、鞭(むち)を加えても陸に上ることができず、国衡を追いかけた和田義盛の箭が国衡の甲(よろい)の射向(いむけ)の袖(左肩を覆う)を射通し、国衡は疵(きず)の痛みに退いた。そして、後から大軍を率いてやってきた畠山重忠の門客大串次郎に頚を取られてしまったのである。

 こうして、鎌倉がたと平泉がたの対決は大勢が決したのである。

【写真=現在も堀跡がくっきりと残る福島県国見町の阿津賀志山防塁。源頼朝軍と奥州軍が激突した古戦場だ】


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