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54.秀衡の死
泰衡、義経追討に転じる

 平泉と鎌倉の関係が緊迫するなかで、藤原秀衡は文治3(1187)年10月29日に死去した。『吾妻鏡(あづまかがみ)』によれば、秀衡は源義経を大将軍として、その指示に従うよう泰衡らに遺言したという。また、京都の九条(藤原)兼実(かねざね)は、ある人が言ったこととして、秀衡の遺言は、兄ではあるが他腹の嫡男・国衡、泰衡らの兄弟融和のため自分の妻(原文は「当時の妻」)を長男国衡と結婚させることと、各自に異心のないことを祭文を書いて誓わせ、義経にも祭文を書かせ、義経を主君として両名は義経に従うようにというものであったと、日記『玉葉(ぎょくよう)』に記している。

 もっとも、平泉藤原氏が滅んだ文治5(89)年における泰衡の年齢は35歳であったというから(『吾妻鏡』)、泰衡の母(藤原基成の娘)は若く見積もっても50歳は越えていたであろう。秀衡の妻というのが泰衡の母のことであれば、この話は考え難い。もしこの話が事実であれば、泰衡の母とは別人を想定したほうが良いかもしれない。ただし、秀衡の遺言は、年長の国衡に相応の配慮をしたものであったことは考えて良いだろう。

 新しい事態をむかえ、源頼朝は平泉の泰衡や藤原基成に対し、義経を追討するように命じてほしいと、強く後白河院に要請した。後白河院は文治4年中に二度にわたり、平泉に対して義経追討の命を発しているが、はじめ平泉側は言を左右にして、命に応じようとしなかった。

 ○頼朝が要求

 なお、この段階での頼朝の要求は、平泉に対して義経征討を命じてほしいというもので、自分に対して平泉征討を命じてほしいというものではない。しかし文治5年になると頼朝は、自分に対する追討命令を要求するようになり、泰衡・基成も義経を尋ね進ずることを承諾する請文(うけぶみ)を京都に送った。このような状況のもとで、平泉側の亀裂が表面化することになったのである。

 文治5年閏(うるう)4月30日に、泰衡は数百騎の従兵をもって藤原基成の衣川の館に義経を襲い、合戦となった。義経の家人らは攻撃を防いだが支えきれず、義経は持仏堂に入り、まず22歳になる妻と4歳の娘を害した後、自殺した。そして平泉における激震は、これでおさまったわけではなく、泰衡は6月26日には、義経に与(くみ)する弟の泉三郎忠衡を殺している。

 泰衡は頼朝に、義経を襲ったこと、その頸(くび)も近日中に送り届ける旨を申し送った。頼朝は早速このことを京都に報告している。そして義経の頸は、6月13日に泰衡の使者、新田冠者(にったのかじゃ)高平が、僕従二人に荷担させ、鎌倉の腰越浦(こしごえうら)にもたらされた。

 腰越は、西方から鎌倉に入る関門で、かつて平家を滅ぼした義経は、頼朝に弁明するために鎌倉に入ろうとして許されず、腰越において腰越状と呼ばれる弁明書を頼朝に送ったところである。生前には越えることを許されなかった義経は、変わり果てた姿で再度、腰越に到着した。頼朝は和田義盛・梶原景時を派遣し、両名は甲(よろい)・直垂(ひたたれ)を着し、甲冑(かっちゅう)の郎従20騎を相具して、これを実検した。『吾妻鏡』には、頸は黒漆の櫃(ひつ)に納められて美酒に浸されており、観(み)る者は皆双の涙を拭(ぬぐ)い、両衫(さん)を湿らせた、とある。

 ○京都は期待

 平泉で義経が討たれたという知らせを受けた京都では、後白河院以下がこれで長期にわたる戦乱も収まるであろうと喜んだという。うちつづく戦乱の時代には、武士による兵糧米の徴発などもあって途絶えがちであった荘園からの貢物なども、もとのように入ってくるだろうとの期待からである。京都の側は、金や馬、そしてさまざまな北方世界の産物を安定的に供給してくれる辺境地方政権・平泉藤原氏の存続を希望したのである。しかし、頼朝の思惑は、平泉藤原氏政権の打倒にあった。こうして事態は文治5年奥州合戦へと動いてゆくのである。

 【注】『吾妻鏡』建久6(1195)年9月29日条によれば、頼朝は存命している秀衡の妻にとくに憐(あわれ)みをかけるように、奥州惣奉行の葛西清重・伊澤家景に命じている。

【写真=鎌倉市腰越にある満福寺。源義経が兄頼朝へ「腰越状」をしたためた地といわれる。境内には弁慶が腰掛けた石などゆかりを伝える品がある】


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