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53.秀衡と義経
勢い増す頼朝の標的に

 源義経が平泉を出て兄・頼朝のもとに馳(は)せ参じたのは治承4(1180)年10月のことで、義経は頼朝の代官として木曾義仲や平家の軍と戦って勝利したが、次第に頼朝の信用を失って孤立していった。頼朝は、文治元(1185)年10月、義経を暗殺するために土佐(とさの)坊(ぼう)昌俊(しょうしゅん)(頼朝の郎従)を京都に送り、これを知った義経は後白河院に頼朝追討の院宣(いんぜん)を強要した。義経が院を西国に連行することを恐れてのことだという。

 怒った頼朝は、義経および義経と同心している行家(ゆきいえ)(頼朝・義経らの叔父)追討のため兵を率いて鎌倉を出発した。義経らは頼朝に対抗するべく、京都やその周辺の武士を集めたが、呼びかけに応えた者は少なく、義経らは再起をはかるべく西国に落ち延びようとした。この時に義経に従ったのは、藤原能成(よしなり)(義経の同母弟、一条大蔵卿長成の子息)・佐藤忠信・弁慶以下200騎ほどだった。

 ○従者は4人

 義経らは大物浦(だいもつのうら)(兵庫県尼崎市大物町付近)から船出したが、暴風にあって神戸沖で難船し大阪・住吉に吹き戻されてしまった。この段階でなお義経に従っていたのは弁慶らと静(しづか)の4人だけであった。これ以後、義経らの行方はわからなくなってしまった。頼朝自身は義経が京都を逃れたことを知って鎌倉に戻り、北条時政が1000騎を率いて入京した。11月には行家・義経を追討するようにとの院宣が諸国に下されている。

 その後義経は、吉野山や多武峰(とうのみね)(奈良県桜井市)に身を隠したらしく、一時は比叡山に隠れたこともあったらしいが、やがて平泉に向かい、文治3(1187)年のはじめころには平泉に入っている。『吾妻(あづま)鏡(かがみ)』は、義経一行は伊勢(三重県)・美濃(岐阜県)などを経て、姿を山伏や児童に借り、藤原秀衡を頼って奥州に赴いたと記し、『平家物語』は「北国」(北陸)経由であったとしている。

 このころ、京都では義経らの背後に秀衡があるのではないかとの噂(うわさ)がとびかったという。一方、頼朝は秀衡に、平泉が京都に送る馬や金は、自分を経由するように申し入れていた。頼朝は秀衡が京都と直接にかかわりを持つことを阻止し、かつ頼朝が秀衡よりも上位にあることを秀衡に認めさせようとしたのである。秀衡は、文治2(1186)年4月、頼朝の申し入れを了承する旨の請文(うけぶみ)を頼朝に送っている。そして5月には秀衡から京都への貢馬3疋(びき)と長持(ながもち)3棹(さお)、10月には貢金450両と貢馬5疋が頼朝のもとに寄せられ、源頼朝はそれらを京都に送る手配をしている。

 ○院宣が下る

 『吾妻鏡』によると義経が平泉にいることを頼朝が知ったのは文治3(1187)年のはじめである。頼朝は3月に、義経が陸奥(むつ)国にいるのは藤原秀衡の企てらしいので、平泉に厳しく問いただすべきだと朝廷に申し入れた。4月になると頼朝はさらに、鹿(しし)ヶ谷の謀議(治承元=1177=年、後白河法皇近臣の藤原成親(なりちか)・俊寛(しゅんかん)らが企てたとされる平家打倒の陰謀)で陸奥に流され、秀衡に属していた中原(なかはらの)基兼(もとかね)を京都に召し進めること、大仏鍍金(ときん)のための金3万両を進上するように秀衡に命じてほしいと要請した。

 朝廷は院宣を下すことになり、頼朝の書状とともに頼朝配下の沢(さわ)方(かた)という雑色(ぞうしき)が平泉に遣(つかわ)された。沢方は鎌倉に戻ると、秀衡は口では異心がない旨を申したが、どうも戦いの用意があるようだと述べた。頼朝は沢方を京都まで派遣し、陸奥の形勢を直接に申し述べさせた。秀衡の返事は、基兼は拘留しているのではなく、本人が京都には行かないと言っている、金3万両は多すぎる、近年商人が多く入ってきて、金は掘りつくしてしまったので、すぐには要求に応じられない、用意ができたならば進上する、というものだったという。

 先には木曾義仲が滅ぼされ、さらには平家が滅亡したことで、頼朝の覇権がほぼ確定すると、頼朝は平泉における義経の存在を口実に平泉藤原氏を攻撃するための方法を、京都のがわは平泉藤原氏の政権の存続を模索することになるのである。

 【注】義経が平泉に身を寄せたことを頼朝が知ったのは、文治3年の後半である可能性もある。

 【写真=鶴岡八幡宮から南西方向を望む。舞殿の向こうにかすむ大鳥居の先が由比ケ浜。源頼朝は鎌倉に入るとまず由比ケ浜にあった八幡宮を現在地に移し、全国制覇の拠点とした=2月、神奈川県鎌倉市】


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