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52.後白河院政と平泉
平家打倒の思惑秘めて

 源義経の父・源義朝が平治の乱で命を落としたのは平治元(1159)年のことである。平治の乱で権力を握った平清盛は、乱後に正三位に進み、仁安2(67)年2月にはついに従一位・太政(だじょう)大臣(だいじん)となった。この間、応保元(61)年には清盛の妻・時子の妹・滋子が後白河院の皇子を産み、この皇子は仁安元年(66)に皇太子となり、2年後に8歳で高倉天皇として即位した。承安元(71)年2月には清盛の娘の徳子が高倉天皇に入内(じゅだい)し、翌年中宮となっている。徳子が皇子(後の安徳天皇)を産んだのは治承2(78)年11月(12月には皇太子)であった。

 ○動きの背後

 これより先、治承元(77)年6月には、藤原成親(なりちか)、西光(さいこう)、俊寛(しゅんかん)らが京都・如意ヶ岳の鹿(しし)ヶ谷の山荘で平家打倒の密議をこらした鹿ヶ谷の事件が発覚するなど、反平家の動きがあらわれていた。藤原成親も西光も後白河院側近として知られた人物であり、動きの背後に後白河院があったことはまちがいないだろう。これに対して清盛は、治承3(79)年11月にクーデターを決行し、後白河院の近臣を解官(げかん)し、院を鳥羽(とば)殿(どの)(京都市伏見区)に幽閉して後白河院政を停止させた。そして治承4(80)年2月、高倉天皇は譲位して幼帝安徳が即位し、高倉上皇による院政が開始されたのである。

 このような状況のなかで、1180年4月には平家打倒を呼びかける以(もち)仁(ひと)王(後白河天皇第二皇子)の令旨(りょうじ)(皇太子などの仰せを下達する文書)が発せられ、源義朝亡き後、平家の信頼も得て源氏の中心人物となっていた源頼政(よりまさ)(源(げん)三位(さんみ)頼政)も立ち上がった。また、伊豆では源頼朝が、木曾では源義仲(よしなか)(木曾義仲)があいついで挙兵し、源平争乱の時代に突入する。

 以仁王の令旨で平家打倒を呼びかけられているのは「源家(げんけ)の人、藤(とう)氏(し)(藤原氏)の人、兼ねて三道諸国の間、勇士に堪えたる者」であって、決して源氏に属する人だけではない。だから、令旨そのものが届けられたかどうかは別として、藤原氏に属する平泉の藤原秀衡にも平家打倒の働きかけがあってもおかしくはないだろう。もちろん、秀衡自身はそう簡単に動くことはなかったが、平泉にあった源義経に、自分の一族であった郎等の佐藤継信(つぐのぶ)・忠信(ただのぶ)兄弟を付けて頼朝のもとにおくったのは、平家打倒の動きに一定の理解を示したことを意味しているだろう。義経としては、各地で挙兵した勢力の中から、兄・頼朝の陣営に加わることを選択したということになる。

 ただし秀衡は、源頼朝だけに理解を示したわけではない。『平家物語』には、寿永2(83)年5月に秀衡が木曾義仲に馬2頭を贈ったことが記されている(第50回「秀衡と頼朝」参照)。当時、名馬を贈ることは相手に対して最高の敬意を表することであった。

 京都では、以仁王と源頼政による蜂起は失敗し、後白河院は依然として平家の厳しい監視のもとに置かれていた。清盛はこのような状況のもとで治承4(80)年6月に福原(神戸市)遷都を強行し、後白河院も福原に伴なわれたのである。しかし福原遷都への抵抗は強く、同年11月には還都されることになった。

 ○極度の混乱

 このころには頼朝の旗揚げを阻止しようとした平家軍が富士川の戦いで大敗し、高倉上皇の健康状況が悪化し(間もなく崩御)、清盛も後白河院の再登場を請うほかはなく、養和元(81)年1月には後白河院による院政が再開された。この前後には、平重衡(しげひら)による南都焼き打ちで東大寺、興福寺がほぼ全焼し、清盛の死もあって、極度の混乱状態が出現している。

 平家との妥協によって再開された後白河院は平重衡に頼朝追討を命じ、重衡は養和元年(81)3月には尾張の墨俣川で源行家(ゆきいえ)軍を破っている。8月になると秀衡に対しては頼朝を追討するように、越後の城(じょう)資永(すけなが)(実は弟の城助職(すけもと))に対しては義仲を追討するようにとの院宣が出されたという(『吾妻(あづま)鏡(かがみ)』)。しかしこの時にも秀衡は動かなかった。養和元年8月に秀衡が陸奥(むつの)守(かみ)に任命され、同時に城助職も越後守に任命されているが、それにはこのような背景があったのである(第49回「秀衡、陸奥守となる」参照)。

 その後、寿永2(83)年5月に義仲が越中の倶利(くり)加羅(から)峠で平家軍を大破したあたりから事態が大きく動く。平家は、義仲らが京都にせまると都落ちし、後白河院は7月には京都に入った義仲に平家追討を命じた。このあたりから事態はさらに急旋回し、義仲は短時に没落し、文治元(85)年3月には平家が壇ノ浦において滅亡するのである。

【写真=以仁王の令旨で平家打倒に立ち上がった源頼政は、逆に敗退し没する。平等院鳳凰堂背後の景勝院境内には頼政の墓がある=京都府宇治市】


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