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51.源義経 鞍馬から平泉へ
立案・滞在に多くの支援

 源義経は2度にわたって平泉へ身を寄せている。1回目は平治の乱(平治元=1159年)で父の源義朝を失い、鞍馬山に預けられたが、やがて自分の身の上を知り、鞍馬山を脱出して平泉の藤原秀衡を頼った。2回目は平家滅亡後、兄の頼朝の不興を買って秀衡のもとに身を寄せた。ただし、一般に流布している義経の物語は、室町時代に成立した文学作品としての『義経記(ぎけいき)』や、これをもとにして作られた浄瑠璃・歌舞伎などの文学・芸能、あるいは伝説などによるところが多く、事実として確定できることはさほど多くはないのである。

 ○成人と決意

 平治の乱は、後白河院側近の藤原信頼(のぶより)がライバルの信西(しんぜい)の排除をはかり、平清盛に遅れをとった源氏の棟梁(とうりょう)・源義朝(よしとも)と結んで、清盛が京都を留守にした機をとらえて起こした争乱である。戦いに敗れた源義朝は再起をはかって東国に落ち延びようとしたが尾張の内海(うつみ)(愛知県知多郡)で長田(おさだの)忠致(ただむね)に謀殺された。源義朝の嫡子・頼朝は捕らえられたが、清盛の継母池(いけの)禅尼(ぜんに)のとりなしで生命を助けられ伊豆の蛭小島に流された。

 常盤(ときわ)を母とする今若丸・乙若丸・牛若丸(遮那王(しゃなおう)丸=義経)の3人も助けられた。治承4(1180)年10月21日(有名な富士川合戦の翌日)に義経が鎌倉で頼朝と対面した際の『吾妻鏡(あづまかがみ)』の記事には、義経は「父・源義朝の喪に逢(あ)った後、継父(常盤の再婚相手)・一条大蔵卿・藤原長成(ながなり)の助けによって出家し、鞍馬に登山した。成人の時に至り、しきりに父の恥をすすぎたいと思うようになり、烏帽子(えぼし)親なしに自分で元服し、藤原秀衡の猛勢を恃(たの)みにして奥州に下向し、長い年月を経た」とある。鞍馬山を出たのは、義経16歳の承安4(1174)年3月3日の暁のことといい(『平治物語』古活字本〔岩波文庫所収〕・『尊卑分脈(そんぴぶんみゃく)』)、これによると義経は6年間あまりを平泉で過ごしたことになる。

 義経を平泉に伴った人物については、古い時期成立の文献には金(こがね)商人(あきんど)と記すだけであるが(『平家物語』)、やや新しい時期の文献になると金売り吉次の名があらわれる(『平治物語』古活字本)。ただし、京都と奥州を往復する金商人の存在は疑いなく、義経はそのような人物の一行にまぎれて奥州に赴いたのであろう。また、義経と行を共にした人物として深栖(ふかす)頼重(よりしげ)という人物がいた(『平治物語』古活字本)。頼重の父は、源義朝が平治の乱で命を落とした後、清和源氏のリーダーだった源頼政(よりまさ)(源三位(げんさんみ)頼政)の義弟で、義経奥州行の背後には頼政の配慮があったことや、吉次と頼重は同一人物であるかもしれない可能性も指摘されている。

 ○縁続き背景

 平泉で義経をささえた人物としては、母の常盤やその夫・藤原長成の縁につらなる人物が考えられる。常盤ははじめ、近衛天皇皇后となった藤原呈子(しめこ)(九条院)に仕えており、源義朝も九条院に奉仕する立場だった。

 義経が平泉にたどり着いた時期にほぼ重なる安元2(1176)年正月に陸奥守(むつのかみ)となり鎮守府将軍を兼ねて、4月には任地に赴いた藤原(高倉)範季(のりすえ)(治承3=1179=年まで陸奥守)は、常盤が仕えた九条院呈子と縁続きの人物であった。範季は義経の兄・範頼(母は遠江国池田宿の遊女)が幼いときに引き取って育てたり(『玉葉』)、文治2(1186)年には、潜伏中の義経の相談相手になったとして源頼朝の反感を買い、木工頭(もくのかみ)・皇太后宮亮(こうたいごうぐうのすけ)を解任されている(『吾妻鏡』『玉葉』『公卿補任』)。また、建仁元(1201)年正月、越後の城(じょう)長茂(ながもち)が京都で源頼朝追討宣旨(せんじ)を要請して失敗し自殺する事件があり、その時に文治5年の合戦で投降していた藤原泰衡の弟・隆(高)衡はその余党とされて討たれたが、範季は高衡を京都・唐橋(からはし)の邸に保護している(『玉葉』)。

 藤原基成は、源義朝を仲間に引き入れて平治の乱を起こした藤原信頼の兄である。基成は早く、康治2(1143)年に陸奥守となり、鎮守府将軍を兼ね、仁平3(1153)年末まで長期にわたって陸奥に在国した。この間に基成の娘は平泉の藤原秀衡に嫁して泰衡の母となっている。基成は平治の乱では戦いにも加わり、事件後には陸奥国に流された(『平治物語』)。義経の義父・藤原長成の母と基成の祖母は姉妹である。その上、基成と義経には、平清盛を共通の敵とする感情もあった。基成が平泉にあって何かと義経の世話をしたであろうことは十分に推測できる。後のことではあるが、源義経が最期を遂げた場所も基成の「衣川館」であった。

 義経の最初の平泉行は、さまざまな人たちによって立案され、平泉滞在も多くの関係者の援護があったのである。

 【注】今回の内容は、保立道久氏の著書『義経の登場 王権論の視座から』(NHKブックス)による点が多い。

【写真=源義経が、初めて平泉を訪れるまで身を寄せていた京都・鞍馬山の杉根の参道。義経はこの地でが跳躍しながら剣術をみがいたと伝わる】


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