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50.秀衡と頼朝
追討了承の風聞が立つ

 藤原秀衡が陸奥(むつの)守(かみ)となったのは養和元(1181)年8月のことで、平宗盛(むねもり)の計らいによるものであった(第49回「秀衡、陸奥守となる」参照)。このころ京都では、秀衡が平家に味方して源頼朝を討つという風聞がしきりに流れたようである。

 藤原(九条)兼実(かねざね)(摂政忠通(ただみち)の三男、後白河院政時代は右大臣、後に摂政・関白をつとめた)の日記『玉葉(ぎょくよう)』は、この時期の京都の状況を知る上で、もっとも有用な史料であるが、これによると治承4(1180)年12月のころに、秀衡が源頼朝を討つことを了承したという風聞が立ったという。また、治承5(1181)年3月(7月に養和へ改元)には、平宗盛のもとに秀衡から頼朝追討を承諾した請文(うけぶみ)が届いたとも記しているが、実際に秀衡が行動を起こすとは信じ難いとも述べている。しかし京都では、秀衡が2万余騎の軍を率いて白河の関を越えたという噂(うわさ)が流れたという。秀衡が陸奥守に任命されたのは、このような状況のもとでのことだったのである。

 ○調伏の密議

 ただし、平家だけが一方的に平泉への働きかけを行ったわけではない。この年の4月には、常陸国から京都に上った者が、頼朝と秀衡の娘との婚約が成立したが、まだ実現していないと語ったという。これも『玉葉』に記されていることである。しかしもちろん、頼朝が平泉に気を許していたわけではない。伊豆に配流中に頼朝と親交を結び、平家打倒の挙兵を扇動したという文覚(もんがく)上人は、江ノ島に弁才天を勧請(かんじょう)したというが、寿永元(1182)年4月に鳥居を建てる儀式が行われ、ここで頼朝は足利義兼、北条時政ら側近の人々と秀衡を調伏する密議をこらしたという(『吾妻(あづま)鏡(かがみ)』)。弁才天は七福神の一つとして福徳財宝の神であるとされるが、『金光明(こんこうみょう)最勝(さいしょう)王(おう)経(きょう)』大弁才天女品には、智慧(ちえ)・財福・音楽・弁舌の徳があり、天災地変を消滅し、戦勝を得させると説かれている。

 寿永2(1183)年5月、木曾義仲は倶利(くり)伽(か)羅(ら)峠(富山県小矢部市と石川県河北郡津幡町との境)の戦いで平維盛(これもり)が率いる平家軍を破った。この戦いの翌日、秀衡から義仲のもとへ駿馬(しゅんめ)二疋(ひき)がとどけられ、義仲はこれを白山社へ神馬として奉納したという(『平家物語』巻七 倶利迦羅落)。その後、義仲は北陸地方から、源行家は大和から京都にせまり、平家は安徳天皇を奉じて京都を去って西海に落ち、義仲・行家は7月には入京、後白河法皇は平家一門の官(かん)爵(しゃく)を削り、幼少の後鳥羽天皇を立てた。

 情勢の変化により頼朝も朝敵ではなくなり、法皇は頼朝と接近をはかり、頼朝に上京をうながした。義仲を牽制(けんせい)する意味もあったという。しかし頼朝は平泉の秀衡や常陸の佐竹氏に背後をつかれることを理由に上京を延期したという(『玉葉』)。常陸国の奥7郡を支配下に置いた佐竹氏は、源義家の弟・義光の子孫ではあるが平家との関係が深く、平泉藤原氏とともに頼朝の背後を脅かす存在だったのである。佐竹隆義の母は清衡の娘だったという。頼朝は、治承4年(1180)11月、佐竹氏を攻めた。この時、隆義は在京中で、嫡子秀義が金砂(かなさ)山城(さんじょう)(常陸太田市)に拠(よ)って戦ったが、敗れて奥州の花園城に逃れた。

 ○暗黙の了解

 このような状況のなかで法皇は「寿永二年十月宣旨(せんじ)」を発し、東海道・東山道諸国に対する頼朝の支配を認めた。頼朝は北陸道の支配権も求めていたが、法皇は義仲に配慮して北陸道を削ったのだという。ただし、平泉藤原氏が支配する陸奥・出羽両国は、東山道に属するものの、頼朝支配の範囲外であることは暗黙の了解であったらしい。

 平家追討を名目に京都を追われていた義仲は、法皇と頼朝の接近にあせり、法皇の御所を焼き打して政権を掌握し、平家に和平を申し入れる一方、秀衡に対しては義仲と協力して頼朝を追討するようにとの院(いんの)庁(ちょう)下(くだし)文(ぶみ)が出された(『吉記(きつき)』)。ただし秀衡が応じた形跡はない。佐竹隆義にも同様の院庁下文が出され、隆義は平家から常陸(ひたちの)介(すけ)に任ぜられて常陸に下向し、頼朝の軍と合戦を遂げたが惨敗を喫した。しかし隆義は、その後も花園城を拠点に頼朝に抵抗を続けたという(『平家物語』)。

 頼朝は弟の範頼・義経を派遣して義仲を征討させた。義仲は寿永3(1184)年1月8日、自ら征夷大将軍となって頼朝と対決しようとした。一転して朝敵とされた頼朝は、征夷大将軍による征討の対象となったのである。しかし1月20日には義仲は粟津(大津市膳所)で敗死し、範頼・義経はそのまま平家追討に向かうことになるのである。

 【注】『吉記』は、権大納言・吉田(藤原)経房の日記

【写真=神奈川県藤沢市江ノ島の江島(えのしま)神社。左手奥の奉安殿には藤原秀衡調伏のため勧請された弁才天木像がいまも安置される】


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