5.安倍貞任と藤原泰衡
前九年の合戦を意識か

 足利尊氏に従った関東の武将、結城直光によって南北朝時代の嘉慶年間に著されたものとされる、『源威集(げんいしゅう)』という本がある。尊氏を源氏の将軍の正系とする立場をとっており、源氏ゆかりの人々によって語り伝えられた、前九年の合戦や後三年の合戦での源頼義、源義家の活躍ぶりや、『吾妻鏡』にはない源頼朝にまつわる話もある。

 それによると文治5(1189)年の奥州合戦の時、源頼朝は前九年の合戦の際の頼義の例にならい、武蔵国入間(埼玉県南部)の野で追鳥狩(おいとりがり)を行い、抜群の働きを見せた工藤行光に対し、頼義の例にならって自らが乗っていた名馬を与えた、という。この話が事実であれば、源頼朝は平泉に向かって出陣する時から、この戦いを前九年の合戦の再現と考えていたことになる。

 文治5年9月、合戦に敗れた藤原泰衡は、秋田県北部まで逃れたが、肥内郡贄柵(にえのさく)(大館市)で河田次郎に討ち取られ、河田次郎は泰衡の頚(くび)を頼朝に献上するため陣ヶ岡(紫波町)に参上し、梶原景時がそれを頼朝に奉った。頼朝はこの頚が泰衡であることを確認の上、それを一旦(いったん)は和田義盛に預け置き、その後、これを懸けることになった。

 釘も同じに

 『吾妻鏡』には、前九年の合戦の際に頼義が安倍貞任の頚を得た時には、横山経兼が命令を受け、門客の貞兼をして貞任の頚をうけとらせ、郎従の惟仲をしてその頚を懸けさせたという例を追い、横山経兼の曾孫の横山時広に仰せつけ、時広の子息の時兼が梶原景時からそれを請けとり、惟仲の子孫の広綱を召し出して懸けさせたとある。念の入ったことには、泰衡の首を懸けた釘(くぎ)も、貞任の頚を懸けた時と同じ、長さ八寸の鉄釘だったという。貞任の頚が懸けられたのも、同じ9月のことであった。

 『吾妻鏡』には、頼朝が平泉から北上して厨川まで赴いたのは、前九年の合戦の際に源頼義が厨川の柵で貞任の頚を得た「佳例」の通り、厨川で泰衡を討って、その頚を獲たいと考えたからだ、とも記されている。頼朝の行動が、万事に前九年の合戦を強く意識していたことは間違いない。おそらくは、鎌倉を出る時にはすでに、厨川で泰衡の頚を懸けるというシナリオがあり、そのための役者や大道具、小道具が用意されていたのであろう。

 頼朝にとって、貞任と泰衡、安倍氏と平泉藤原氏は、さまざまな意味で二重写しの存在であった。しかしながら頼朝の心中では、前九年の合戦の「勝利」は真の「勝利」ではなかった筈(はず)である。源氏の意識としては、前九年の合戦では「おいしい」部分は清原氏にさらわれてしまい、後三年の合戦でもその挽回(ばんかい)はならなかったからである。

 奥六郡の主

 頼朝が文治5年の合戦の先に見ようとしたものは、祖先がなし得なかった真の「勝利」だったにちがいない。平泉藤原氏と安倍氏・清原氏は、血縁の上でも、また奥六郡の主(あるじ)であるという点でもつながっていた。頼朝はそれを強く意識していたようで、泰衡の父、秀衡と頼朝とが虚々実々の駆け引きを繰りひろげていた時期、頼朝は秀衡に対して、自分は東海道の惣官、御館(みたち)(秀衡)は奥六郡の主であるから、魚水の交わりをしようという書面を送っている。

 平泉側でも、自分たちは奥六郡の主としての鎮守府将軍の肩書を、代々受け継いでいたと認識していた。頼朝軍によって捕らわれの身となった由利八郎は、取り調べにあたった梶原景時に対し、平泉藤原氏は三代にわたって鎮守府将軍の号を汲(く)む名門だと述べ、頼朝も八郎の主張を容認せざるを得なかったという。

 東北地方の南部に対しても力をふるうことができる新しい顔を得た平泉藤原氏の初代清衡は、東北の都(みやこ)としての平泉の町づくりをはじめたのであったが、平泉藤原氏の本来の顔は、安倍氏、清原氏から受け継いだ(実質的な)鎮守府将軍の地位、奥六郡の主という顔であった。頼朝は先祖の頼義も義家もが熱望したその立場を、ようやく手にすることができたことを実感したのが、泰衡の頸を懸けた場面だったのである。

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 【注】源威集の作者はについては佐竹師義とする説もある。また、入間野の狩は建久4(1193)年に行われたものの誤伝かもしれない。

【写真=北上川対岸から見た盛岡市の安倍館。厨川柵の候補地の一つだが、今のところ平安時代の遺跡である確証は得られていない】


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