WWW http://www.iwate-np.co.jp


 
49.秀衡、陸奥守となる
平家が頼朝台頭けん制

 平泉藤原氏の3代・秀衡は嘉応2(1170)年5月に鎮守府将軍に任命され、従5位下を授けられ、さらに養和元(1181)年8月には陸奥(むつの)守(かみ)に任命されている。平泉藤原氏は初代・清衡以来、実質的には鎮守府将軍ではあったが(第47回「鎮守府将軍」参照)、正式に鎮守府将軍となった意味は決して軽いものではない。まして陸奥守の地位は京都の貴族のもので、地方人が陸奥守となったことはなかったから、秀衡が陸奥守となったのは特筆すべきことであった。

 ○京都の政権

 このあたりの事情は、京都で平家の勢いに衰えが見えはじめてきたことと関係する。平氏打倒の動きは、治承元(1177)年6月の、後白河法皇側近の藤原成親、西光、俊寛らが鹿(しし)ヶ谷の山荘で平氏打倒の密議をこらした鹿ヶ谷の事件あたりからはっきりしてくる。治承4(1180)年4月には後白河天皇第2皇子・以仁(もちひと)王の令旨(りょうじ)が発せられ、これをうけて8月には伊豆で源頼朝が、9月には木曾で源義仲が挙兵するなど、事態は大きく動いた。頼朝の挙兵を知った平家は平維盛を将とする軍を派遣したが富士川の戦いで敗れ、10月には頼朝が鎌倉に入っている。平泉の藤原秀衡のもとを出た源義経が駿河国黄瀬川の宿において頼朝と対面したのもこの月のことである。

 このような情勢のなかで、平清盛は11月には福原から京都へ還都したが、その直後の治承5(1181)年閏(うるう)2月4日には清盛が亡くなり、その後を平宗盛が継承した。この頃(ころ)都では、希望的観測をも含めて、秀衡が平家に味方して源頼朝を討つという風聞がしきりに流れ、実際にも秀衡に対して源頼朝追討を命じたこともあったようだ。

 藤原秀衡陸奥守任命と同時に、城(じょう)助職(すけもと)も越後守に任命された。城氏は越後国北部の阿賀野川以北に拠点を置く武士である。助職の越後守任命に先立っては、1180年9月に信濃で木曾義仲が挙兵すると、義仲に追われた平家がたの小笠原頼直が城氏に救いを求めるということがあり、助職は、越後・出羽・信濃・会津勢をまとめて義仲と戦ったが、横田河原(長野市)の戦いで義仲軍に大敗し、助職は本拠地の阿賀野川以北の越後北部に退いた。助職の越後守任命はこのような状況の下でなされたのである。

 右大臣・九条兼実(かねざね)の日記『玉葉(ぎょくよう)』には、次のようなことが記されている。8月6日、後白河院の使者として吉田経房がやってきて、次のような院の仰せを伝えた。

 関東の賊徒(源頼朝)は勢いが強大なため追討できない。そこで秀衡を陸奥守に任命しようと平宗盛がいっている。陸奥国はもともと秀衡にほぼ虜掠(りょりゃく)されているのだから、陸奥の住人秀衡を陸奥守に任じても特に何ということもないだろうが、いかがなものだろうか。また、越後国の住人平助成(城助職のこと)は先に宣旨(せんじ)によって信濃に出兵して義仲軍と戦ったのであるが、敗れた。しかしそれは軍勢が少なかったためで、過怠ではないので後々のために恩賞を与えたいのだが、越後守はどうであろうか。ただし、戦いに敗れたのであるから、ここで越後守を与え、もし今後戦いに勝つようなことがあったら、そのときにどうするかが問題である。あるいは京官に任じようとも思うのだがどうであろうか。意見を聞きたい。

 ○宗盛の意向

 兼実は次のように答えた。源頼朝追討のことは、まったく大将軍(宗盛)の仕事で、異議をさしはさむところではない。秀衡を陸奥守とすることは、何事もない。助職を越後守に任命することは、秀衡と同じことではあるが、陸奥・越後の両国を空(むな)しく失ってしまうことになるので、思慮が必要である。しかし、これらのことは道理の推す所ではない。京官に任ずるのであれば、靭負(ゆげいの)尉(じょう)(衛門府の三等官)はいかがであろうか。

 この人事を推進したのは平宗盛であることがわかる。この件について吉田経房は日記(『吉(きつ)記(き)』)に「秀衡・助職の事、人以(も)って嗟(さ)歎(たん)す。故(ゆえ)に記録すること能(あた)はず」と、兼実は「天下の恥、何事之(これ)に如(し)かず哉(かな)。悲しむべし、々々(うんぬん)」(『玉葉』)と記している。貴族たちの受け取り方はこのようなものであった。

 この件は、平泉藤原氏の辺境地方政権が、東北地方の南部までを実効支配していることを前提として、末期の平氏政権が後白河院にせまり、頼朝による東国地方政権の伸長を抑えようとして、秀衡により高い地位を与えて、背後から頼朝を牽制(けんせい)させようという意図から出たものであった。そして秀衡は、陸奥守となったことにより、多賀国府にも一層強い力を行使できるようになったのである。

 【注】城氏は、前九年の合戦の発端時に、陸奥守・藤原登任(なりとう)とともに安倍氏と戦った秋田城(じょうの)介(すけ)・平重成(繁成)の子孫で、城の姓は、平重成(繁成)が任じられた秋田城介による。

(東北歴史博物館前館長・盛岡市出身、仙台市在住)

【写真=2005年夏、江戸東京博物館で開かれた新発見考古速報展に出品された福島県会津坂下町陣が峯城跡出土の白磁水柱(右)と白磁四耳壺。同遺跡は越後・城氏の拠点ともみられ、出土遺物の器形から平泉藤原氏】


トップへ